ジョージアヨーロピアン トリビアクイズで出題される問題と解答の一覧です。
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また、お使いのブラウザによっては正しく表示されない可能性がありますが、
今のところ対応できていません。対応する予定もありません。
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約1年前のバナの説明会 [08/12/23火02:33 #r1546]
約1年前、富士吉田の説明会に成り行き上強制で行ってきた者です。
へえ〜、今はバナクリニックなるものが撒き餌なんですね(笑)
参考までに、約1年前の説明会の情報を掲載します。
いきなりまいりました。とっても寒い中で工場ができますという話を聞かされました。
同じ場所にはテレビCMで有名(?)な滝の流れるバナの泉がありました。人が来ないときは滝を止めてあるそうです(笑)
ここではポリタンクに原水を詰める長蛇の列が。私を連れてきたエージェントにせかされて水運びを手伝いました・・・。
!doctype>ワシントン(CNN) 米共和党予備選第3戦を前にCNNと世論調査機関ORCが実施した調査で、2連勝しているミット・ロムニー前マサチューセッツ州知事の支持率が34%と他候補を大きく引き離して首位に立っていることが16日までにわかった。次の予備選は、21日にサウスカロライナ州で行われる。
!doctype>zikomoの所属するマスターズチームは少人数なので大会に出る人が少なくラップを取ることは少ないですし、子供の大会ではコーチがラップを取ってくれているので、zikomoの場合はあまりストップウォッチの必要性を感じていませんでした。
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さて、国内線のターミナルCに入った私は、3時間もの乗り継ぎ時間を持て余したので、President Club (コンチネンタルのラウンジ)でひと休み、コーヒーを飲んで文庫本を読む。それから、買い物ついでに、国内線のコンコースに出てみる。TIMEとダイエットコーラを買って、トイレに入る。会長の好きなアメリカ版のトイレネタだ。
テキサス州の空港のトイレには、写真のような注射器の回収ボックスがある。初めて見る人にはぞっとするものがある。NWの旧型ジャンボ機のトイレにも似たような注射器の回収箱があったな、そんなに利用する人、いや、すべき人がいるのだろうか?
アメリカのトイレは犯罪防止のため、上部と足の部分が見通せるようになっていて角度によっては丸見えだが、考え方によっては、どのトイレが空いているか人目でわかるので便利だ。ただ、初めての人は落ち着かないだろうね。特に女性は� ��
・・・初めから何も壁すらない中国式よりは、まし?
ゲート前の椅子のあるWaiting areaに入るにも、IDが必要だ。列に並んで、チェックを受ける。私の前のプエルトリコ人は、不審者らしかったのか搭乗を拒否された。会話の内容からして、搭乗チェックインした人間とこの人物が別人だったらしいのだ。オマケにIDも所持していない。
後のニュースで知ったことだがアメリカン航空ではマイアミ行きの便で靴に仕掛けたC4爆薬でテロ未遂が起こったばかり、危ない危ない。このプエルトリカンだって何を持ち込んでいたかわからない。冷や冷やして椅子に座って写真撮影すると、ここも撮影ダメと警備員に注意される。(実はこの時、不審なアジア人としてチェックされていたのかもしれない。)
!doctype>ホーム ページ アメリカの素顔
アメリカの国立公園指定第一番目、それは、Yellowstone。ここは、Wyoming の北西端にあり、ネブラスカの南東のはずれに位置するリンカーンからは、ほぼ、二つの州を斜めに横切るという、これまた、胸のすくようなドライブである。
大学時代の友人、森谷君、彼は、60歳を越えて再婚したというロマンスの主人公でありながら、重合化学のオーソリティであり、しかも、山男の心意気をもった紳士でもあるが、その彼、現在ニューヨークに在住であるが、是非、一緒にアメリカをドライブして見たいということで、今回、2人旅のイエローストーンめぐりとなった。
もちろん、アメリカの大自然を楽しむということが第一目標であるが、森谷君は、ラップトップのコンピューターを持参し、これを利用して、今回の旅のために開いたホームページを旅先から更新するという離れ業に挑戦した。
コースの中には、グランドテトン、イエローストーン、そして、デビルズタワー、バッドランドといった国立公園が入っており、これもまた、見所たっぷり、変化に富んだ、アメリカならではのドライブとなった。
走ったコースは次の通りであるが、果たして、そのドライブのなかみはというと・・・。さあ、時間の許す限り、ユックリと楽しんでください。
一日目 チムニーロックからララミー砦
アメリカ大陸の地図を開くと、ネブラスカはその真ん中に位置している。つまり、何処の海岸からも一番遠いところにあるということで、このことは軍事的には非常に重要な意味を成している。敵国から進入されたとしても、また、大陸弾道弾が飛んできたところてしても、アメリカ大陸のなかで最も安全なところという認識があるらしい。そんなことから、ここには、非常時の地下司令室があるとうわさされているが真偽の程は分からない。
こうした地理的なこととともに、さらに重要なことが、歴史的な意味である。ご存知のようにアメリカの発展の歴史は、1776年の独立以来、まだ250年足らずで、そんなに日が経っていない。非常に若い国である。そのアメリカが1803年にルイジアナ買収( 現在のミシシッピー川以西を当時は、ルイジアナと呼んでいた。)し、ジェファーソン大統領はこの地の統治を確立するために「ルイスとクラークの探検隊」を派遣し、西洋人の入植の足がかりを築いた。そして、5世代かかるといわれた西洋人の入植は、この肥沃な大地と、西部での金の発見により、わずか1世代でこの西部を覆ってしまうほどであった。その、西部入植と、ゴールドラッシュの旅は、St. Louisからミズーリ川を溯り、カンザス・シティーまで西に進む。ここで、ミズーリ川は大きく湾曲し、北に向かっていくので、西部を目指す人たちは、この辺りで川から陸路をとるのである。幌馬車隊を組み、先住民であるインディアンたちと睨み合いをしながら、西へ西へと進む。こうして、いわゆる、オレゴントレイル、カリフォルニアトレイル、サンタフェトレイル、さらには、モルモントレイルなどという、西部への街道が形成されていった。その拠点となるのが、Kansas, Atchison,St. Josep、Nebraska City, Plattsmouth,Omahaと言った、カンザス州からネブラスカ州にかけてのミズーリ川の河畔の町なのである。こうした町は、とにかく西部への出発点ということで、沢山の人か、全ての有り金をはたいて物資を購入したものだから、当時はたいへんな繁栄を極めたのである。そうした名残が、町のあちこちにフランス風の豪邸館として残っている。これらのトレイルが共通して通過したのが、ネブラスカ州を横切っているプラッテ川に沿った街道なのである。そして、なんの変哲もない平原の道から、いよいよロッキーの山を迂回する険しい山麓地帯に入ると、そこに、この人たちのトレイルの目安としていた独特の岩山が姿を見せる。これが、有名なチムニーロックである。その異様な姿はなかなか言葉では説明しがたいが、とにかく、� ��の名のとおり、空に突き出た煙突のような岩で、この岩こそが、まだ、コンパスなどというものが非常な貴重品で誰でもが使えるような時代ではなく、もっぱら、前にとおった幌馬車の轍の後だけを頼りに旅を続けていた人々に、大きな安堵と、勇気を与えてくれたのであろう。
こうして、フロンティアの旅は続くが、その後になって出てくるのがスコッツブラフの崖である。そして、ここを過ぎるといよいよトレイルはワイオミングに入る。このあたり、かっては、Sioux族、シャイアン族といった強力が部族が支配していた領域で、ここを西部の開拓者たちは命をかけて通り過ぎていったのである。当初、インディアンは、おおくの物資をもたらしてくれるこうした西部への入植者達といざこざを起こすことはあまりなかったが、やがて、その数が余りにも多く、自分たちの生活の基盤が脅かされてくることに気がついたインディアン達の間に自分達の権利を主張する部族があらわれ、少しずつ険悪な状態になっていった。そんななかで、幌馬車で旅をする人たちを守ったのがいうまでもなく騎兵隊である。その騎兵隊の拠点となった有名なララミー砦というのが、ここにある。もともとはララミーの河畔に毛皮の取引所として発展したところで、ここに、騎兵隊が� ��宿したのである。軍の指令部の建物、兵の寄宿舎、訓練所、厩舎などが広々とした敷地に点々と広がっていた。カンザスのドッヂシティで見た砦では、すでにインディアンとの和睦が確立していたのであろう、兵の家族も砦で一緒に生活していたあとが伺えたが、ここは、軍隊の訓練広場まで用意されているという、まさに前線基地という感の砦であった。
このララミー砦は、実はララミー市にあるのではなく、この日の宿泊予定をしていたララミーには、まだ、100マイルほど走らなくてはならない。おとなしく、ハイウェイに戻り走れば何のことはないが、地図にも道路がしっかり書いてあるということで近道を取る。しかし、少し走るとこれが、がたがたの田舎道。以前にも経験したことがあるが、こうした道は案内板がなく、地元の人たちがたまに通る程度の、全くの生活道路なのである。ここによそ者が入ると、何回がカーブをしているうちに自分がどちらに向いているか分からなくなる。そんな経験をカナダの帰りにしたことがあるので、慎重に方角を確認しながら、土ぼこり をたて田舎道をつき進む。そうこうしているうちに遠く高い煙突を見つけた。おそらく発電所のものであろう。そこまで行けば、道路は整備されているし、何とかいけそうだと気を強くしたが、これが、また遠い。いけどもいけどもその煙突が近づいてこない。20分くらいこんないらいらが続いて、やっとの思いで ハイウェイにでる。やはりよそ者は田舎道を通らないようにするのが、アメリカドライブの鉄則である。ララミー砦を見ているときにパラツイテいた雨も上がり、東の空には虹が見えている。それも、珍しい二重の虹だ。アメリカでは、虹が地平線まで延びているので、色合いがとても素晴らしい。こんな素晴らしい虹は、この旅のこれからの天気を占っているようだった。
この日の走行距離は、590マイルでした。
ララミーからドリッグスへ
アメリカの地図を眺めていると、まるで定規で便宜的に筋を引いたように州境が決められている。その中でも、まさしく四角に区切られているのが、コロラドとワイオミング。ともにロッキーの山々が大陸の分水嶺として堂々と聳えているが、こうした山の稜線が必ずしも州境になっていないのがいかにもアメリカらしい。逆に、ミシシッピー川やミズーリ川、オハイオ川などが州境を形成していることを考えると、どうも、アメリカでは水系のほうが分水嶺よりも意味があったような気がする。
そして、このララミーは、目的地のイエローストーンとは、四角形をしたワイオミングの対角線をなしている。だから最も速くイエローストーンに行くには、斜めに走ればよいのであるが、ここは一日余裕をもって、まず真っ直ぐ西に進むことにした。というのも、ここが、アメリカ開拓史の舞台となった最も重要な街道だからである。ここを走るインターステーツ80を旅することは、丁度時間を遡って旅をするようなものだ・・・と解説がある。大平原と盆地に住むインディアン達は、ここを通商の道として使った。そして、そこには、オレゴン、カリフォルニア、そして、ユタに進んだ幌馬車隊の残したわだちがいまだに残っているのである。そして、西部に移住した人たちと、彼らのふるさとに残した家族との間の便りの交換を馬を乗り継いで運んだポニー・エクスプレスの宿場が残っている。このポニー・エクスプレスの運命は、僅か60年で消えるが、その原因となったのが、ここに大陸横断鉄道が開設されたからである。
われわれがはしったインタースターツ80は、リンカーンハイウェイと呼ばれる。それは、合衆国の数あるインターステーツのなかで、東海岸と西海岸を結んだ最初の高速道路という栄誉に対して付けられた名前だ。インターステーツの走る高原は、実に殺伐としている。どこまでも広がる黄色い草原。水が少なく殆ど緑が消えうせている。そんな中に、突如として町が現れる。こんなところに人が住めるのか思われるようなところに決して近代的とは言えないがかなり大きな街である。Rawlinsというのは、アメリカの中西部ではかなりの石油会社であるSinclairの製油所がある。なるほど、ところどころに例の石油を掘り出しているポンプを目にすることがあった。以前に、同じワイオミングの北の端を旅行したときにも、大きな石油基地の町を見たことがあるが、なにを隠そう、ワイオミングは石油が産出する州なのであった。暫くいくと、草原の中にフレアースタックから火が挙がっている石油基地も見えた。これには、驚き。あまったガスが燃えるほど石油が出るということだ。資料によれば、なんと、ワイオミングはアメリカで生産している石油の46%を占めているとか。このあたりから、Wamsutter、Rock Springsあたりまでは、Sweetwaterという平原が続く。すでに標高は2000メートルである。殆ど川をみることはできないが、ここを流れる水は、すでにコロラド川に注ぎ、やがては太平洋に流れこむ水である。小高い山の頂には、どこにも見られる風車が高原を吹き抜ける風を受けて、ゆったりと回転している。
石油と共に、ワイオミングの資源は石炭とウラニウムである。露天掘りをされているその石炭を積んだ貨車が百輌近く連なって、西へ東へと運ばれてゆくのである。その量がこれまた驚く。ネブラスカでもよく見たが、何しろ、大陸横断鉄道のうえを、石炭を満載した貨物列車が引っ切り無しに走っているのである。驚くなかれ、その量は、1991年には、194百万トンもの石炭を産出したとのこと。これは、合衆国の石炭生産量の3/4に相当する。ちなみに、このほかの鉱物資源としては、石灰石、御影石、ヒスイなど、そして、ウラニウムの産地でもあるとか。但し、ウラニウムはと投機的な採掘が行われ、今では閉山の憂き目にあっているとのこと。これは、誰をウラムニウム? ところどころにある露天掘りの高山、見るからにボタ山のようにものもみえる。そんな光景を楽しみながら、やがて、遠くに雪を抱いた山々が見え始める。13,745 ftのFremont Pk, から、13,192 ftのWind River Pk へとつらなるWind River 山脈の山々である。
ワイオミングを横断するこのインターステーツの旅は、Rock Springsを過ぎ、州の外れ にあるEvanstonと言う町で終わる。この町のビジターセンターに寄ると、そこの管理人がどこから来たのかと聞く。ララミーからだといったら、「それは、よく来た。」と。とにかく、ワイオミングを横断してここまで来てくれたことがとてもうれしかったらしい。このトレイルが歴史的に非常に意味のあることをしきりに強調していた。旅の楽しみは、こうしたビジタ ーセンターで旅行者を歓迎してくれる地元の人と親しく話ができること。ちょっとした町ならどこにもあるが、特に立派なのは、州境に近い町のビジターセンターである。立派なガイドブック、地図、そして、様々な資料がそろっているし、なかには、コーヒーやお菓子のサービスまでしてくれる。こんなときには、思らず、この町に来てよかったと、一ドルの寄付をする。
ここで、ガソリンを補給する。さすがにワイオミングは石油が出る州ということで、ガロン2.66ドル。ネブラスカでは、このところの急騰で3ドル近くしている。信じられない価格だ。思わず、ポリタンに入れてガソリンを買いだめしようかと言いたくなる安さだ。
インターステーツ80を降り、ここから北に向かうとやがて、Utahに入る。といっても殆ど州境を走るようなものだ。そして、やがて、アイダホにはいる。ここには、ベアーレイクという避暑地がある。高速から、州の高速を走るときには、制限速度が65マイルになるので、ついついスピード違反となる。そんなときにパトカーに捕まるのだ。なにしろ、前にも、後にも車はいないし、道路は真っ直ぐ。偶々あるカーブでは、スピードを緩めず体で感ずる遠心力を楽しむ程度にスピードを出す。そんな感じで気持ちよく運転していたら、かなり彼方に黒い車が道端に突っ込んだ形で止まっている。なにか不自然。ひょっとしてパトカーか。ここは用心するに越したことはない。というわけで、スビードダウン。制限速度の5マイルオーバーで走る。近づいてみると、なんと、やっぱりパトカーがスピード違反を取り締まっていたのだ。おー、間一髪。桑原、桑原の一幕でした。
ベアーレイクは、ユタとアイダホに跨る湖で、幅10`、長さが30キロある。ここの標高は、2000メートル。沢山の人が水上スキー、ボート、つり、中には、水浴びを楽しんでいる人。また、水辺では、ATVと呼ばれるバギー車で爆音を立てているものがいる。ソールトレイクあたりからもここにリゾートに来ているようで、やはり水質の差があるのだろうか。久し振りに湖を見たということで、思わず気が緩む。ここで、運転を交代して暫くして、昼食のために一休み。と、その時ふと、車のキーがないのに気がつく。そう簡単に落とすようなものではないが、車のなかのどこを探しても出てこない。これから先。旅はまだ長い。スペアーキーがないのでは不安で仕方がない。何とかしなくては、と思えば思うほど焦ってくる。もう一度、運転を交代したところからトレースしてみる。森谷君がこのあたりで有名なハンバーガー屋で食事をしている間、また元に戻 り探すことにした。10マイルほど、あれこれ考えながら引き返す。が、元に戻ってもやはり見つからない。これは、もう観念するしかないと、森谷君の待っているところに戻る。彼も、いろいろ探してくれたが、どうしても見つからない。仕方なく、出発しようとしたら、彼が鍵を出してか車を運転しようとする。車には、キーがついているではないか。という ことは。結局、こうして無事、鍵紛失騒動はけりがついた。
ベアーレイクから、北に走り、ワイオミングの入る予定が、何処で道を間違えたのか、アイダホを走っている。地図には強いといっていた森谷君の勘違いで、どうも、北西に走っているようだ。Montpelierから東に向かう予定がすこし狂ったが、北に進んでいるなら問題ないとこのまま進む。地図を見れば、この道、オレゴントレイルとでている。とんだところで、また、歴史の街道を検証することとなる。途中、Soda Springsという町についたが、ここがまた、白い山々に囲まれた町。いたるところに岩塩のような採掘場が見える。近くには、Dry Lakeなどと書かれた場所もあり、おそらく、このあたり、標高は2,000b近くあるが、かっては湖のそこではなかったか。まわりは、ワイオミングの南を走っているときには、枯れ草の丘を走っているようであったが、このあたりになるとハイウェイは白樺の林に囲まれて、車の窓を開ければ緑のにおいがするすがすがしい空気を吸うことができる。こうして、ワイオミングとアイダホの州境を走りながら、分水嶺をこえ、Shoshone川の水系に入る。このShoshone川は、Snake川とも呼ばれている川で、太平洋に注ぐコロンビア川の支流である。非常に長い水系を持っていて、その水源は、ジャクソンレイクである。極僅かしか離れていないが、こことイエローストーンレイクとの間に大分水嶺があり、イエローストーンレイクの水は、ミズーリ川に注ぐイ エローストーン川に流れ込んでいる。この日は、Jacksonに宿がとれず、Driggsという、アイダホの田舎町に泊まる。ところが、このDriggs で次の日の朝、たいへん貴重なものを見ることができた。
この日の行程
米国で十万部売れた小冊子のベストセラー
『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人訳
「なぜ避妊が人を不幸にするか?」は1994年5月オハイオ州コロンブスにある教皇庁立ヨゼフィーヌス・カレッジで開催された米国カトリック医師会での講演です。講師紹介はデニス・ドゥーディー博士。
講師紹介
講師のジャネット・スミス博士はグリンネル・カレッジ卒業後ノースカロライナとトロント各大学で古典言語学修士号と博士号を取得されました。ノートルダム大学で十年間教壇に立った後、現在に至るまで、ダラス大学哲学部で助教授を勤めておられます。教授は各地の大学で聖職者や信徒を相手に講演活動を続け、教皇ヨハネ二十三世医学倫理研究所では3回にわたって全米司教団に講義なさっておられます。著作は多く、中でも回勅『フマネ・ヴィテ』に関してはすでに著作・編集が2冊あります。その他、プラトン、徳、中絶、避妊に関する専門的記事が種々の学術誌に掲載されています。スミス博士は現在オハイオ州各地を講演旅行中ですが、運良くわたしどものためにも時間を割いて下さることになりました。家庭と結婚に� ��する教会の伝統的教えに関する興味と熱意を、スミス教授が新たにして下さることを願います。では、ジャネット・スミス博士、どうぞ。
ありがとうございます。当地で皆さんにお話しする機会を得て、うれしく思います。何しろ父はアシュタブラ、母はクリーヴランド、わたしはここからさほど遠くないペンシルヴァニア州ウォーレンで育ちましたから、これは里帰りのようなものです。
さて、ドゥーディー博士が言われたように、この件に関してはかなりの量の著作があります。1冊は425ページ、もう1冊はそれ以上あります。ですからわたしがここで言いたいことがどれほどたくさんあるかお分かりでしょう。聴衆にとってこれはさほどいいニュースではありません。ことに、皆さんが座っている椅子もだいぶ堅いようですし、また、わたしはしゃべり始めると途中で止まることができません。どうしましょう? しかし、頭の中にある多量の情報を処理する一ついい方法があります。それは簡潔な文章の中に言いたいことを全部圧縮してしまうことです。ラジオで耳にしたガリソン・キーラーがこんなことを言っていました。「エミール神父は1年に1度避妊について説教をします。それは『もしあんたたちがミネア� ��リスに行きたくないのなら、何でミネアポリス行きの列車に乗っているのかね?』というたった一つの文章から成り立っています」。賢明な皆さんはお分かりですよね?
さて、今夜、わたしは避妊とそれに関連する性の問題に関する教会の教えについて話します。ご存じの通り、わたしたちは避妊法が人類の歴史始まって以来最高の発明であると考える文化の中に生きています。もし、車、コンピュータ、避妊ピルの中でどれか一つ断念しなければならないとすれば、どれを選ぶか答えに窮してしまう人は多いことでしょう。ピルはそれほどまでも現代生活に欠かせず、現代医学最大の発明であると思われています。それにもかかわらず、わたしたちの古めかしいカトリック教会はピルが人類の歴史で最悪の発明だと主張します。教会によれば、ピルこそわたしたちの歴史始まって以来最大の災難なのです。
この世はそれが最高の発明である、カトリック教会はそれが最大の災難であると主張しているのですから、これは他に類を見ない二極化と言えましょう。今夜は、なぜ教会の教えにはわたしたちが真剣に受け止めるだけの価値があるか、皆さんに分かっていただけるよう努力するつもりです。
ほとんどの人が知らないことですが、1930年8月14日までは、キリスト教のどの宗派も一致して避妊などとんでもないと確信していました。その日、英国国教がこの連綿たる伝統を破って、深刻な理由があれば夫婦が避妊することを認めたのです。同年12月31日、教皇ピオ十一世は回勅『カスティ・コンヌビイ』で、教会の伝統的教義を確認なさいました。カトリック教会内部では、1960年代半ばまで異論が聞かれることはほとんどありませんでした。反論が出始めたのは1963年になってからです。それまではまるで一枚岩のように教会内部にこの点に関する一致が見られました。1960年、カトリック信者の66%は教会の教えを実践していました。現在、80%のカトリック信者が何らかの避妊行為をしています。30%のカトリック信者は不妊手術を 受けています。NFPを実践しているカトリック信者はわずか4%と言われます。わたし個人としてはこの数字はもう少し低いのではないかとさえ思っています。
過去30年の間に従順の度合いが66%から4%に急落したのはなぜでしょうか? 理由の一つは、60年代には効き目のある避妊薬がまだ登場していなかったということです。ピルはその少し前に開発が始まったばかりで、まだ市販されていませんでした。少なくとも州境を越える取引に関しては、ほとんどの避妊剤とか避妊用具はほぼ全米各州で非合法でした。避妊剤とか避妊用具を非合法化したのはプロテスタントの議員たちでした。避妊は常に社会における性的放縦の源と見なされ、道徳的にまともな社会であれば禁止されて当然であると思われていたものです。しかし、皆さんもご承知の通り、合衆国憲法の周縁部に見つけた「プライバシーの権利」のために、それらの法律が廃止されました。州境を越えた避妊剤とか避妊用具の取引禁止法を廃止した最高裁の決定はロー対ウェイド判決の前触れでした。プライバ� �ーの権利はグリスウォルト対コネティカット州判決中に見られ、次に、中絶を合法化したロー対ウェイド判決で繰り返されることになります。そのころはまだ、カトリック信者にとって従順は徳であると考えられていました。まだ、教会が病気になっていなかったのです。カトリック信者は理解するしないにかかわらず、教会がそう教えるから従う心づもりがありました。
1960年代にピルが入手可能になりました。同時に避妊薬に関連する革命が起きました。ピルはいくつかの理由で人類にとっての救いであると考えられたのです。当時、人口に関して人類は破滅に突き進んでいると人々は考えるようになり始めていました。わたしが高校生であった頃、地球から人間がこぼれ落ちているポスターが校内に張り出されていたものです。当時、地球が満員になってしまうと本気で予想されていたものです。しかし、実際はといえば、人口増加のために大飢饉と数々の戦争を預言したマルサスとポール・エーリッヒ以上の大間違いをした人物を見つけるのは至難の業です。
人口過剰の神話について詳しく話す時間はありませんが、何人かの著者を紹介することならできます。お薦めは人口学者のジュリアン・サイモンとベン・ワッテンブルグ。たくさんいるうちからもう1人だけ挙げるとするとマルサスとエーリッヒの著書を批判したジャックリン・カズンです。
マルサスの主張は、人口は幾何学的に増加するのに食料供給はせいぜい数学的にしか増加しないであろうというものでした。人口が著しく増加したのは確かですが、これは必ずしも悪いニュースではなく、そういう事実があったというに過ぎません。いいニュースはマルサスが夢想だにしなかったほどの食糧増産です。アメリカ合衆国だけで世界中の人間を養っていけるほどの食料生産があるのです。ですから食糧危機は問題ではありません。現代農業技術のお陰で食糧増産は指数関数的に増加しました。海洋での食糧増産も可能ですが、それすら今のところ必要がなさそうです。限りある鉱物資源に関しても、マルサスによれば、石炭、銅、貴金属はすでに不足しているはずですが、現状がどうかと言えば、一人当たりのこれらの資源� ��彼の時代より豊富なのです。また、たとえば原子力エネルギーのようにこれら以外の資源も人類は発見していす。
繰り返しますが、わたしはここで人口過剰という神話を打破しようとしているのではありません。わたしが言いたいのは人口過剰神話を疑ってかかるだけの根拠があるということだけです。それでも、皆さんはテレビ画面でやせこけた子供たちの姿を目にするのはいったいどうしたことだろうと不思議に思われるでしょう。飢えさらばえた子供たちの写真を見せられたりすると、つい人類は人口過剰に悩まされていると思いたくもなります。しかし、飢餓は人口過剰と何の関わりもありません。飢餓の原因は部族間、人種間の憎しみと争いにあります。また、腐敗した政府と食料配分の不手際もその原因です。さらには人類が制御することのできない自然災害にもよります。にもかかわらず、避妊ピルによって人類が進歩したと考える根� ��には人口過剰の心配があるのです。
フェミニズムも避妊ピル受け入れフィーバーの一因です。フェミニストによると、避妊ピルを使用して子供をたくさん産まないようにしなければ、女性が職場で自己実現することが不可能であり、子供の数を減らすには高性能避妊ピルが必要なのです。
さらに、避妊剤、特に避妊ピルによって結婚生活はもっと幸せになると信じられています。その理由は明らかです。結婚した人たちが避妊ピルを使用すれば、自分たちが望んでいたあの至福の性生活に水を差す妊娠の恐怖がなくなると思ったものです。人々はすぐにこぞってそう信じ込みました。避妊ピルが結婚した人たちの性生活から妊娠の恐怖を取り去るのであれば、結婚前の人たちの性生活からも同じく妊娠の恐怖を取り除くはずです。であれば、婚前セックスをしない方が間違いなくおかしいと人々は考え始めたのです。
60年代にわたしは十代でしたが、こういう考え方は当時当たり前になっていました。なるほど、運転しないのであれば車を買うことはありません。もちろん、どうせ結婚する相手なら婚前セックスをしない方が馬鹿みたい、ということになりました。本当に車を買うのであれば、まず何台か試乗しないで買う人はいないでしょう。どのモデルが気に入るかもまずは試乗しないと分かりません。乗り心地と性能も確かめてみたいものです。結婚に関しても60年代はこんな風でした。それ以前の世代の人たちは、性の衝動を抑えることができなかったので結婚するか、結婚するまでは歯を食いしばって我慢するしかなかったのは不幸なことでした。しかし、避妊ピルがある今、結婚していなくてもセックスができるので、結婚前に試してみる ことで、もっと落ち着いて将来の配偶者を評価・選択できるようになりました。何といういい時代になったものだと考えられたのです。
また、避妊ピルがあれば望まない妊娠の劇的減少が可能になるとも思われました。理論上、避妊によって計画外妊娠を減らすことは可能でした。計画外妊娠の減少には必然的に妊娠中絶の減少が伴うはずでした。これが避妊ピルに対する60年代の願望でした。以上のどれ一つとってみても、愚かしい期待であったと言うつもりはありません。皮肉に聞こえるかもしれませんが、これらの期待はすべてもっともであり、論理的でもあるように思えます。
しかし、当時のカトリック教会は異議を唱えたのです。1968年7月25日教皇パウロ六世は回勅『フマネ・ヴィテ』を発表しました。当時すでに成人していらした方もここにいらっしゃいます。それは教会とそれ以外の社会の上に落とされた爆弾のように感じた記憶がありませんか? カトリック教会が避妊に関する昔からの教えを再確認したのはすべての人にとってショックだったのです。避妊ピルの入手が容易になり、社会に蔓延すれば何が起こるかについて、教皇は回勅『フマネ・ヴィテ』17でいくつかの預言をなさっています。
その一は社会に広く道徳低下が見られるであろうというものです。60年代の事情を知っている方で、90年代の現在、目が覚めている人であれば、この預言がどれほど正しかったか説得する必要はないでしょう。60年代に十代の少女であったわたしはDonna Reed Show, I Love Lucy Show, Father Knows Best, The Spin and Marty Show など家族そろって楽しむことのできる健全な番組が数多くありました。ところが今はどうでしょう! ソフトポルノとして通じるような午後のソープオペラ、想像もしなかったような性的倒錯を恥ずかしげもなく紹介するトークショーはもちろんのこと、画面に登場する広告を見て腹が立たないことはないぐらいです。これをわたしは「水の中のカエル現象」と名付けました。もう耳にしたことがおありかもしれませんが、カエルを熱湯に入れると、熱いのですぐに飛び出します。しかし、ぬるま湯の中のカエルは、だんだん熱くなって湯が沸騰するまで危険に気づかないので、煮えて死んでしまいます。わたしたちもこのカエルと同じです。60年代のわたしの父親だったら、いやどこの家の父親でも、MTVを目にしたら、腹を立ててテレビ� �窓から放り出してしまったことでしょう。しかし、現代、わたしたちはテレビもろとも煮え殺しの目にあっています。通りすがりの犯罪、車中からの銃撃、ギャングによる犯罪、校内で起こる子供たちによる銃撃事件、その他わたしたちを怯えさせる諸々の悪は言うまでもありません。「それが避妊とどうつながるのだろう」といぶかる方もいらっしゃることでしょう。すぐに分かりますが、その前にまず教皇パウロ六世の預言を最後までかいつまんで見てみましょう。
第二の預言。教皇パウロ六世は男性が女性の肉体的、心理的幸福を広く侵害するであろうと預言なさっています。ポルノは男性による女性の肉体的、心理的幸福の侵害でなくて何でしょうか? 男性による女性の性的乱用は激増しました。統計によると同じ所帯に住む男性によって乱暴される女性の数は鰻登りしています。また、合衆国貧困層の60%が母子家庭であることは何を意味するのでしょうか? こういうことが女性の肉体的、心理的幸福の侵害を意味するのは明らかです。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか? これほど多くの未婚の母親がどうして存在するようになったのでしょうか? すぐそれに触れます。
第三の預言は避妊薬が入手可能になったら政府が強制的目標のために家族計画政策を採用するであろうということでした。この点に関する現行の政策はひどいものです。合衆国が強力に後押ししている国連は、第三世界諸国への経済援助を厳しい人口政策の実施と結びつけています。これらの諸国で先進国が食料その他の援助を受けるのであれば、避妊薬を強制的に配布し、不妊手術を実施し、妊娠中絶も合法化しなければなりません。ニュースで見られたかもしれませんが、カトリック系のメディアでは女性代表がこういうことに激怒して抗議していました。これは弱い者いじめに他なりません。これらの女性は自分たちがまるで家畜並の扱いを受けいると感じています。彼女たちに必要なのは避妊政策とタイアップされない出生前健� ��診断、教育、子供たちのための食料ではありませんか? 中国での強制的一子政策を描いたスティーヴン・モーシャー氏の著作A Mother's Ordeal(邦訳は「チャイニーズ・マザー」上下巻、祥伝社、定価各巻1800円)をご存じの方もいらっしゃるでしょう。中国各地で2人目以降の胎児は強制的に中絶されてしまいます。妊娠後期であっても女性は畑から強制的に連行されて中絶手術を受けさせられます。わたしたちはここ何週間か、シンガポールで一人の若者がむち打ち刑を受けたことで、全国的憤激の嵐を経験しました。それがとんでもない人権侵害であるというのです。それなのに中国で現在毎日のように起きつつあることについて同じような世論があったでしょうか?
パウロ六世の第四の預言は、わたしたちが人間の体をあたかも機械であるかのように見なし始めるということでした。わたしたちが肉体と霊魂の完全統一体である人間人格に対する尊敬を失ってしまい、肉体は自分たちの好き勝手に取り扱うことのできる機械になってしまうということでした。この預言が実現した証拠に、二、三の例を挙げると、わたしたちが使用している生殖技術の使用、代理母、試験管ベビー以上のものを考えつくことができるでしょうか? 昨年のクリスマスの頃でしたが、英国では五十九歳の女性が試験管受精で妊娠しました。エルマ・ボンベックに言わせると、これは不可解だそうです。彼女曰く、五十九歳にもなっていれば赤ちゃんをどこかに置き忘れることもあり得ます。高校の卒業式に行っても自分がなぜそこにいるのか分からないかもしれません。しかし、この話の要は女性が今や赤ちゃんを購入できるという点にあります。女性であればだれでも試験管ベビークリニックに行って精子を購入して、好みの赤ちゃんを入手できるようになりました。ですから「デザイナー・ジーンズ」には新しい意味が付け加わったことになります(genes=遺伝子jeans=ジーンズ ― 訳者)。ノーベル賞受賞者の精子が欲しければスタンフォード大学に、切れ者の赤ちゃんが欲しければ� ��サチューセッツ工科大学隣接のクリニックに、アイヴィーリーグの天才の子を産みたければハーヴァード大学の近くに出向けばよくなりました。結婚していようがいまいが、レスビアンであってもなくても、女性であればだれでも支払い能力さえあれば赤ちゃんを買うことができます。現代人は肉体を機械のように扱っていないでしょうか?
さて正しかったのはこの世だったでしょうか? 教皇パウロ六世だったでしょうか? 避妊法がすばらしい発明であった、結婚生活が改善されるはずだ、とした世俗的世界の預言は成就したのでしょうか? ある意味でよくなった結婚があったかもしれません。しかし、離婚率が示しているのは、悪い結婚がたくさんあったということに他なりません。しかし離婚に終わる結婚は当事者にとって悪い結婚であったからではありませんか? 実際、1965年から1975年までの期間に離婚率は倍増しました。離婚率は今世紀に入ってから、25%だった1965年に至るまで緩やかな上昇を示していました。ところが1975年にはすでに50%になりました。わずか十年の短期間に離婚率は倍加したのです。スタンフォード大学にロバート・マイケルという社会学者がいます。かれは離婚率のこの異常増加率に注目しました。1975年から1976年にかけて避妊ピルが自由に入手できるようになると離婚率も平坦化したのです。
統計・科学的調査で、彼は避妊ピルが離婚率の急上昇に貢献した三つの理由を発見したと信じています。この急上昇の45%は避妊ピル使用にあると主張しています。以下に彼がいう三つの理由を挙げますが、わたしはそのほかにも理由があると信じます。
!doctype>こんにちは。
まず
1.残念ですが、前科は2度と消えません。
2.2についてはおっしゃる意味はわかりませんが、前科は消えないことからも残っています。
3.事件を10年後に起こそうが20年後に起こそうが前科はあるので、過去についてはとりあげられるかもしれませんね。
4.第三者の人は、当時の新聞を見るかしないと情報を知りえることはできません。あとは、探偵に調べてもらうかでしょうか・・・
【海外】5日続きのターキー料理に受刑者ハンスト で、またターキー[米]
保安官事務所によると、十数人の受刑者が7月31日、食事のメニューが「ターキー・チリ・
マック」や「ターキー・ア・ラ・キング」、「ターキー・シチュー」「ターキー・ソーセージ」などと
連発したことに抗議し、食事を取ることを拒否。約1時間半にわたって、「ハンスト」を敢行した。
31日の騒ぎは約1時間後に一応収まったが、受刑者をどのように説得したのかは不明。
保安官事務所は3日、「ターキー、ターキー、またターキー、と続いたメニューは、刑罰の
一環ではない」と述べたが、同日の夕食メニューは、ソースに「ターキー肉」を使った「スパ
ゲティ」だった。
<丶`д´> 丶`д´>
ワロス
えらい!
ターキーパーティ!!!
約1時間半にわたって、「ハンスト」を敢行
バカバカしくてワロスw
1時間半てみじか
今日、秋葉原に行ったとです。
山手線の内回りホームを歩いていたら、北側の階段のところの
JRからの「お知らせ」の看板に、誰かが赤いマジックで
「(お知らせ)ぬるぽ」と書いてあるのを発見したとです。
やっぱり、秋葉原には電車男でもいるのか、と思ったとです。
ヒロシです… ヒロシです… ヒロシです……………
ターキー好きのしわざ
贅沢な食事でつね
夜のお供にターキーを一人一羽ずつやるから我慢しろ!
スパムミートみたいだな。スパームスパーム
フリーターキー
次はスパムだスパム!
「もしも、こんな刑務所があったら・・・」
メニューの名前に「ターキー」を入れず、「鳥肉のシチュー」とかにしとけば気づかれなかったのでは?
ハンバーガーにしとけばよかったんだよ
ヘルシーなのになw
最後にターキー料理を出すところがにくいな
最後の晩餐にターキー・・て違うよw
どっかで在庫抱えて刑務所が安く買い取ったのかな。
知り合いの米人が
「何故日本人はチキンばかり食べるんだ。ターキーの方がヘルシーだぞ。」
とスーパーの食品売り場について熱く語っていたのを思い出した。
チキンならストはなかった。
俺も今日6時間ほどハンストしたぜ
なんて贅沢な!ってアフリカ人に思われるぞ
水之江ターキー
ターキーってパサパサ
ボウリング場でならターキーを続けられる漏れが来ましたよ
ターキー&翼
ナイナイかよ!!!!!!!!!!!!!!!!
ターキー高峰
クマバーガーにしとけよ
オレにくれよ
ターキーって食べた事ないが
美味そうだな
ターキーの肉を頬張ると唾液が出てこなくて、いつまでも口の中でゴワゴワしてるんだよね。
一週間カレーの我が家といい勝負。
ターキー&翼
昔、センター街の入ってすぐにあったバーガー(?)屋さんに
ターキーサンドが売ってて時々食ったなあ
「ハンスト」って何よ???
犯罪者は飯食えるだけありがたいと思え
全員餓死しろ!!
>>50
なるほど
ワロ지
ん?タッキーのことじゃないんだ
マーキー谷口
_ _ _
× × ×
 ̄  ̄  ̄
ワシントンD.C.(Washington, D.C.、正式:コロンビア特別区、District of Columbia)は、人類の歴史を通して規模と範囲で他に類を見ない公共博物館、国家の最も貴重なモニュメントや記念館の大部分を占める、とらわれない施設が集積している、アメリカ合衆国の首都であり、政府の3部門の所在地である。連邦議会議事堂、ワシントン記念塔、ホワイトハウス、そしてリンカーン記念館の合間のナショナルモールの景色は、世界で最も豊かで強力な国家の象徴として世界的に有名である。
モール以外のコロンビア特別区は、世界的な大都市にふさわしい買い物、食事、そしてナイトライフを持った、退屈で危険を伴う都市として、その古い評判を過去20年間で払拭することになる。訪問者は、新しく、エキサイティングで、明らかにコスモポリタンで国際的な都市を発見することになる。
実質的にD.C.の旅行者のすべては、街の重要記念物やスミソニアンの博物群の多くを有する美しい長く続く緑地庭園、約3キロ(2マイル)強のナショナルモールを訪れる事になるが、都市自体は、記念建造物、政治またはホワイトハウス、新古典主義の建物とはほとんど関係なく活気に満ちた大都市である。スミソニアンは"見逃す事ができない"が、都市を出歩けるようになってやっと本当のD.C.を知る事になる。
ダウンタウン (ナショナルモール、イーストエンド、ウエストエンド、ウォーターフロント) すべての中心である。ナショナルモール、D.C.の主要な劇場地区、スミソニアン協会や豊富な非スミソニアン博物館、高級料理店、チャイナタウン、ベライゾンセンター、コンベンションセンター、中心的な商業地区、ホワイトハウス、ウエストポトマック公園、ケネディセンター、ジョージワシントン大学、美しいタイダルベイスン (Tidal Basin) や新しいナショナルズ公園 (Nationals Park) 。 |
北中部 (デュポンサークル、ショー、アダムス・モーガンとコロンビアハイツ) D.C.の最も多様でトレンディな地区、ライブミュージックやクラブの最も人気のある地区だけでなく、多数のレストラン、ハワード大学、ブティックでのショッピング、見事な大使館群、リトルエチオピア、Uストリートのジャズやたくさんの魅力あるホテルがある。 |
西部 (ジョージタウン、アッパーノースウェスト) 権威ある裕福な側面、活動的なナイトライフ、植民地時代の建築や高級料理店があるジョージタウンの歴史的な小さな街、国立動物園、壮大な国立大聖堂、素朴なダイバートンオークス、D.C.の大規模な最高級ショッピング、より重要な大使館街、アメリカン大学や複数の魅力ある飲食店街がある。 |
東部 (キャピトルヒル、ノースイースト、アナコスティア) 議会議事堂や議会図書館から出発し、過去の壮大なユニオン駅や歴史的なキャピトルヒル地区が扇形に広がり、あまり頻繁に訪れないギャロデッドとカトリック大学、歴史的なアフリカ系アメリカ人のアナコスティア、野球の殿堂周辺のD.C.の"リトルバチカン"、巨大な国立植物園、ケニルワース水生園、アトラス地区の風変わりなナイトライフ周辺地域や少数の他の偏心地区がある。 |
ワシントンD.C.は、政治を支え、政治による、政治のための人工的な特別な都市である。最初の首都でなく、フィラデルフィアが何年も前に政府に管理されている(また首都は独立戦争の間、イギリス兵から逃れるように、ボルチモア、ランカスター、ヨーク周辺に移転している)。しかし、議会はプリンストンへ逃げ出す兵士を追いかけ、ペンシルバニア州の州知事の暗黙の処罰に不満を抱く米軍兵士を追うように、"自由の揺りかご (Cradle of Liberty)" に熱意を失う事になる。
放浪政府はアナポリス、トレントン、そしてニューヨーク市にも短期間置かれていたが、南部州が北軍の中心として扱われておらず、首都は当時の強力な州政府から独立する必要があると前々から明らかとなる。ジェームズ・マディソン、トマス・ジェファーソン、アレクサンダー・ハミルトンは、中部大西洋の主として居住者のいない土地に置く事に歩み寄り1790年に合意する。正確な位置は、ジョージ・ワシントンに任せ、マウントバーノンにある彼の自宅の隣に置く事を検討することになる。ピエール・ランファン (Pierre L'Enfant) は、州の管轄外となる新しい都市計画をまかされる事になり、彼の監督下で迅速な建設が行われた後、若い政府が1800年に移転することになる。1812年の戦争中(イギリスが焼き討ちを行ったとき)にバージニア州リーズバーグに一時的に移転した事を除けば、米国政府はコロンビア特別区に到達し基礎を築くことになる。
ポトマックとアナコスティア川の合流地点で菱形に分かれるこの新しい都市は、港湾都市として成功するよう作る事を目標としたジョージタウンとアレクサンドリアの2つの現存する小さな都市を結ぶ事になる。歴史はこの失敗を判断する必要がある。初期の頃の元々の両港は、中部大西洋の主要輸出品「タバコ」の貿易を積極的に行っている。港湾都市の中心としてさらなる発展を遂げようと、チェサピークとオハイオ運河がジョージタウンの横に建設されたが、高価な事業であったため、ボルチモアの深水港に接続して、新しいより効率的なボルチモア&オハイオ鉄道と張り合う事ができず、失敗に終わる。ポトマック川の堆積の増加後、実質的な停止状態に港の機能が陥る事になる。
アレクサンドリアの港は、ジョージタウンを優遇した政府の計画以来、不釣り合いに苦しむ事になる。連邦政府の心配と相まり、特別区内の奴隷貿易を禁止することになる、これは、1846年にバージニア州へ戻るポトマック川の西側の返還につながり、このようにして、都市の整った菱形を台無しにし、連邦の管理下でメリーランド州から得られた唯一の地域を残すのみとなる。
この時点からの国の首都は、設立当時の胸躍る興奮を欠き、北軍と南軍の境界線上での妥協の位置は、南北戦争中の不安定さを指し示している。メリーランド州政府は南軍に共感し、リンカーン大統領は、州政府全体の審理なしに簡単に停止したり保留したりしないよう離脱の思考(首都が囲まれて残ってしまう)を防止することになる。手に負えないボルチモアを食い止めるため(騒々しい住民が多く、ボルチモアの人々は、それほど南軍に好意的でない)、大統領は、中心業務地区の正面に大砲を向けるよう、フェデラルヒル地区に備え付けるために大砲を送り出すことになる。資産、行政官、軍隊、技術者の圧倒的な流入と戦争中の首都を守る砦は、忙しい都会の中心へ活気のなかった首都を転換させることになり、� ��内最大級の大都市のひとつに次の150年間をかけて成長するよう定められる。
ワシントンD.C.の文化は、黒人と白人、出身者と短期滞在者、東部と西部の間の分類によって少なからず定義される。他の都市に比べて、比較的少数の住民が生粋のワシントンD.C.生まれである。最新の国勢調査の数字は、人口の約50%が過去5年間に引越ししたと報告している。一時的な居住者は、政府関連の仕事と好景気のためにワシントンD.C.に惹き付けられた、圧倒的多数の専門職、若者、白人、裕福で高度な教育を受けている人々である。これは、地域社会に深く根ざし、アメリカ合衆国の最も貧しい同士の都市ランクのいくつかの地域、最も疎遠で、公立学校や暴力的な住宅プロジェクトにおける深刻な問題に悩まされ、恵まれない、多くの社会経済的多様性を持つ、地元のアフリカ系アメリカ人の人口とはまったく対照� ��である。
別名チョコレートシティ (Chocolate City) のワシントンD.C.は、長い間全国的なアフリカ系アメリカ人の文化の中心地として主要な黒人の都市となっている。アメリカ合衆国で初めての黒人を主体とする都市で、1920年代まで(ニューヨークが上回るまで)、最大の黒人人口を有する都市である。Uストリートは、ストリートの至る所のクラブで演奏をしていたワシントンD.C.生まれのデューク・エリントン (Duke Ellington) がいたブラック・ブロードウェイ (Black Broadway) として知られている。特別区は、廃止論者フレデリック・ダグラス (Frederick Douglass) が拠点を置く、公立学校を統合したアメリカ合衆国の最初の都市であり、近隣で容認の拠点、そして人種間関係の進歩主義の両方を兼ね備えたということで、南部を離れたアフリカ系アメリカ人の人々にとって長い間魅力的な目的地となっている。ワシントンD.C.には、アメリカ合衆国の最も重要な歴史的黒人大学のひとつ、ハワード大学も置かれている。
ワシントンD.C.、特に都市の範囲を超えた大都市圏では、外国生まれが人口の3分の1と途方もなく、国際的だと印象を持つことになる。最大の移民グループは、主にエルサルバドルからとなる、中央アメリカ地域からである。ラテン系の文化は、混ざり合った都市の多様な文化のすべてを知る事ができる両地区マウントプレザントとコロンビアハイツ内に特別区内の本場を見いだす事になる。また、特別区は、エチオピア料理に愛着を与え、特別区自身リトルエチオピアの中心地であると知る事になる、非常に大きいエチオピア人社会を持つ、大きなアフリカ系移民の人口も持っている。国際的な文化は、大きな外国人専門職の人口だけでなく、国際関係分野の仕事を探している国中からのアメリカ人のためにもかかわらず、うま� �移民社会を超えて広がっており、簡単に言えば、特別区が全米で最も国際的な街だといえる。
地方政治、そしてコロンビア特別区と連邦政府関係の地元の憤慨は、おそらくすべてのワシントン市民同士を結合する接着剤となっている。コロンビア特別区は、基本的に米国議会の管理下に置かれている。1973年以来、特別区の居住者は、市長だけでなく、D.C.市議会へ代議員を選出することができるようになる。しかしながら、米国議会は、特別区で可決された法律を覆す権利を持ち続けている。特別区内に居住する約60万人の市民は、特別区が"州"でないため、米国議会の代議員に投票する権利を有していない。特別区の住民が米国議会に投票できない負担を課されている事を訪問者に示唆するものとして、特別区のナンバープレートは、標語 "代表なき課税 (Taxation Without Representation)" を載せており、同じ標語は、革命戦争前にイギリスの支配を糾弾するために使用されている。
ワシントンD.C.の気候は、おそらく大規模な官僚支配に失望しているという意味で湿地の上に都市が築かれたと、悪い風評を持っている。結局、誰もワシントンD.C.に住みたくないと思った場合、あのとき、あまりにも多くの官僚は存在しえなかったはずである。
ここは、すべてが巨大な壷である。ここには湿地はなく、気候は実際に年間を通じてとても素晴らしさがある。比較的穏やかな気温の満足は、ひどい、不可解な湿度によって完全にかき消されており、首都の悪天候の神話は、ほとんどが夏季の最高気温時に訪れる事からきている。子供のように汗をかく7月のモール内の真夏日には、絶え間なく不平をこぼし、可能な限り多くの時間を室内で過ごしたいと思うものである。この時期は訪問する最も最悪な時期である。
!doctype>【やっぱり歴史は】 世界大恐慌時の世界 【繰り返す】
ブラマン前・後の状態
アメリカには世界中から資金が集まり、世界中が株式投機と言うマネーゲームに興じました。
(アメリカの株価は、バブル前の5倍に跳ね上がりました)
≪ブラック・サーズデー発生≫
そんな中、1929年の10月24日、突如としてアメリカ株の大暴落が発生しました。
この株価の大暴落が起こった時は木曜日でしたので、ブラック・サーズデーと名付けられました。
この株価の大暴落で、株に手を出していた多くの人々は多額の負債をかかえることとなり、企業は資金繰りが大幅に悪化。ウォール街のビルの窓から飛び降りて自殺する人も出てしまいました。
(その当時、各国の政府は利上げやら規制やらをしたのですが、多額の借金をしてまで株を買う人も多く、株価の大暴落のダメージを大きくしてしまいました)
≪ブラック・サーズデー後の状態・アメリカ国内≫
ブラック・サーズデーによる株価の大暴落で負債を抱えたり資金繰りの悪化した企業は、あれよあれよと言う間にバタバタと連鎖倒産しました。
その結果、世界各国の失業率は急上昇してしまいました。
失業してしまった人々は、お金を使わなくなってしまいました。
1781年3月15日、アメリカ軍4,400は、ギルフォード裁判所のNew Garden Road(ニュー・ガーデン道路)に三重の防備線を敷いてイギリス軍を待ち構えた。昼過ぎ、ニュー・ガーデン道路の西側の森からイギリス軍が現れた。アメリカ軍は、1,900のイギリス軍に対して砲撃で出迎えた。これにひるまずイギリス軍も銃撃を返し、なおもコーンフィールドの中を進軍してきた。第1列のノースカロライナ民兵はレールフェンス越しにマスケット銃で待ち構えた。レールフェンスから50mまで迫ったとき、アメリカ軍は銃弾を浴びせた。しかし、イギリス軍はひるむことなく、隊列を整え、さらに銃剣を構えて迫ってきた。第1列はたちまち崩れた。第2列のヴァージニア民兵は林の中で待ち構えた。林の中ではイギリス軍の銃剣は使用が困難であったが、多くの犠牲を払いながら、イギリス軍はそのまま突き進み、ギ� �フォード裁判所付近に戦闘体勢を整える第3列の正規軍に襲い掛かった。アメリカ軍には騎兵隊も参戦し、一進一退の戦闘状態となった。イギリス軍は事態打開のため、味方の犠牲のリスクにも関わらず、大砲をアメリカ軍に向けて打ち込んだ。これによりアメリカ軍は崩れ、撤退を余儀なくされた。
戦いは2時間半で終了し、イギリス軍の勝利に終わった。しかし、イギリス軍が兵力の4分の1を失ったのに対して、アメリカ軍の実質的な被害はイギリス軍の半分程度にとどまり、それ以上のアメリカ軍の追撃は困難になった。イギリス軍は戦いには勝ったものの、消耗が激しく、ノースカロライナのWilmington(ウィルミントン)にいったん引き揚げざるを得なくなった。戦いに負けはしたもののイギリス軍の消耗を狙うグリーンの目� �は達成された。イギリス軍の大きな犠牲の上に立つギルフォード裁判所の戦いの勝利は、ボディーブローのように効いてくることとなる。コーンウェル卿は、グリーンを支援するヴァージニアを抑えこまない限り、イギリスの勝利はないと考え、ヴァージニアに進軍する。そして運命の戦いがYorktown(ヨークタウン)で始まることになる。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
チャールズ・ピンクニーは、1757年10月26日に、チャールストンに生まれた。父親のチャールズは、農園主兼弁護士兼植民地議会議員兼民兵大佐という典型的な地方のエリートであった。チャールズは、当時の裕福な家庭と同等、家庭教師から教育を受けた。そして父親から法律を学び、1779年に弁護士となった。しかし、ときは独立戦争の真っ只中。ピンクニーも民兵に志願し、中尉に任命され、同年9月の失敗に終わったサバンナ奪還戦に参加した。1780年5月のチャールストン陥落後も父親のチャールズと異なりイギリスに忠誠を誓わなかったことから、イギリス軍に捕らえられ、拘留される経験もした。(父親チャールズの転向は後に強く批判されるが、このためにスニ� ��農場はイギリスに没収されなかった。)
ピンクニーは、1784年に州議会議員に選ばれると、すぐに大陸会議への代表に選ばれた。民兵としてイギリスと戦った経験から強い中央政府が必要であるとの信念に立ち、連邦政府の権限の強化を唱え、連合規約の改正を主張した。そして1787年にフィラデルフィアで開催された憲法会議でサウスカロライナを代表し、自ら新憲法の草案を提出するなど、新憲法の制定に向けて積極的に審議に参加した。とりわけ、民兵としての経験から、連邦軍の維持と文民統制に係る権限の議会と大統領との分配などに意を尽くした。1788年に憲法案が採択されるとこれに署名し、サウスカロライナの批准に尽力した。1789年にはサウスカロライナ州知事に選ばれ、最終的には合計で4期務めることとなる。1798� �には連邦上院議員にも選ばれ、1800年の大統領選挙ではジェファーソンを支持し、翌年には論功でスペインに大使として赴任した。1804年に帰任後は、サウスカロライナ州の政治に復帰し、州議会議員、知事を務めた。1814年に一旦政界から引退したが、1818年には連邦下院議員に当選し、1821年までこれを務めた。
父親のチャールズが1754年に始めたスニー農場は、1782年にピンクニーに譲られた。ピンクニーは、チャールストンに住み、7つの農園を所有していたが、スニー農場が一番のお気に入りの農園であったという。1791年5月には、ここにワシントンを朝食に招いている。ここでは40-60人の奴隷が牛を育て、米、藍などの栽培に従事していたという。ピンクニー家は60年あまりこの農園を所有していたが、1818年に債務履行のためこの農� �を手放した。現在敷地に建つ邸宅は1820年代のもので、残念ながらピンクニーが所有していたものではないが、ピンクニーの邸宅と同じ場所に建てられ、当時の典型的な南部沿岸地帯の別荘を体現しているという。
独立宣言署名者が56名いたことは比較的知られているが、憲法案署名者はその数(39名)も含め、あまり知られていない。ここは忘れられた建国の父たちがいたことを思い起こさせる場所となっている。
(国立公園局のHP)
1.サムター砦
サムター砦は、英米戦争後に、沿岸域防衛のため、米国沿岸に建設された一連の砦の一つである。チャールストン港沖合いの砂州に1829年に建設が始まり、650人の兵力と130基の大砲を備える計画であったが、完成に至らないうちに歴史の荒波に放り出されることとなった。砦の名前は、独立戦争時のサウスカロライナの指導者の一人であったThomas Sumter(トーマス・サムター)に由来する。