カウペンスの戦いで機動部隊の多くを失ったLord Cornwallis(コーンウェリス卿)は、Nathaniel Green(ナザニエル・グリーン)率いるアメリカ軍を追跡し、戦いを挑むが、戦力の充実を図りたいグリーンはヴァージニアに後退した。ヴァージニアで補強を行ったグリーンは、ノースカロライナでキャンプ中のイギリス軍に挑むべく進軍を開始した。決戦の場所となったのは、Guilford Courthouse(ギルフォード裁判所)と呼ばれる場所であった。
1781年3月15日、アメリカ軍4,400は、ギルフォード裁判所のNew Garden Road(ニュー・ガーデン道路)に三重の防備線を敷いてイギリス軍を待ち構えた。昼過ぎ、ニュー・ガーデン道路の西側の森からイギリス軍が現れた。アメリカ軍は、1,900のイギリス軍に対して砲撃で出迎えた。これにひるまずイギリス軍も銃撃を返し、なおもコーンフィールドの中を進軍してきた。第1列のノースカロライナ民兵はレールフェンス越しにマスケット銃で待ち構えた。レールフェンスから50mまで迫ったとき、アメリカ軍は銃弾を浴びせた。しかし、イギリス軍はひるむことなく、隊列を整え、さらに銃剣を構えて迫ってきた。第1列はたちまち崩れた。第2列のヴァージニア民兵は林の中で待ち構えた。林の中ではイギリス軍の銃剣は使用が困難であったが、多くの犠牲を払いながら、イギリス軍はそのまま突き進み、ギ� �フォード裁判所付近に戦闘体勢を整える第3列の正規軍に襲い掛かった。アメリカ軍には騎兵隊も参戦し、一進一退の戦闘状態となった。イギリス軍は事態打開のため、味方の犠牲のリスクにも関わらず、大砲をアメリカ軍に向けて打ち込んだ。これによりアメリカ軍は崩れ、撤退を余儀なくされた。
戦いは2時間半で終了し、イギリス軍の勝利に終わった。しかし、イギリス軍が兵力の4分の1を失ったのに対して、アメリカ軍の実質的な被害はイギリス軍の半分程度にとどまり、それ以上のアメリカ軍の追撃は困難になった。イギリス軍は戦いには勝ったものの、消耗が激しく、ノースカロライナのWilmington(ウィルミントン)にいったん引き揚げざるを得なくなった。戦いに負けはしたもののイギリス軍の消耗を狙うグリーンの目� �は達成された。イギリス軍の大きな犠牲の上に立つギルフォード裁判所の戦いの勝利は、ボディーブローのように効いてくることとなる。コーンウェル卿は、グリーンを支援するヴァージニアを抑えこまない限り、イギリスの勝利はないと考え、ヴァージニアに進軍する。そして運命の戦いがYorktown(ヨークタウン)で始まることになる。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
Charles Pinckney(チャールズ・ピンクニー)といっても、サウスカロライナ州の人以外には知っている人はほとんどいないだろう。ピンクニーは、独立当初のサウスカロライナを代表する政治家で、州議会議員、知事、連邦上下院議員などを歴任したほか、サウスカロライナ州を代表して合衆国憲法案の審議に参画し、署名した人物である。サウスカロライナ州のチャールストンの郊外にピンクニーが所有した農園、Snee Farm(スニー農場)の跡がCharles Pinckney National Historic Site(チャールズ・ピンクニー国立史跡)として保存されている。
チャールズ・ピンクニーは、1757年10月26日に、チャールストンに生まれた。父親のチャールズは、農園主兼弁護士兼植民地議会議員兼民兵大佐という典型的な地方のエリートであった。チャールズは、当時の裕福な家庭と同等、家庭教師から教育を受けた。そして父親から法律を学び、1779年に弁護士となった。しかし、ときは独立戦争の真っ只中。ピンクニーも民兵に志願し、中尉に任命され、同年9月の失敗に終わったサバンナ奪還戦に参加した。1780年5月のチャールストン陥落後も父親のチャールズと異なりイギリスに忠誠を誓わなかったことから、イギリス軍に捕らえられ、拘留される経験もした。(父親チャールズの転向は後に強く批判されるが、このためにスニ� ��農場はイギリスに没収されなかった。)
ピンクニーは、1784年に州議会議員に選ばれると、すぐに大陸会議への代表に選ばれた。民兵としてイギリスと戦った経験から強い中央政府が必要であるとの信念に立ち、連邦政府の権限の強化を唱え、連合規約の改正を主張した。そして1787年にフィラデルフィアで開催された憲法会議でサウスカロライナを代表し、自ら新憲法の草案を提出するなど、新憲法の制定に向けて積極的に審議に参加した。とりわけ、民兵としての経験から、連邦軍の維持と文民統制に係る権限の議会と大統領との分配などに意を尽くした。1788年に憲法案が採択されるとこれに署名し、サウスカロライナの批准に尽力した。1789年にはサウスカロライナ州知事に選ばれ、最終的には合計で4期務めることとなる。1798� �には連邦上院議員にも選ばれ、1800年の大統領選挙ではジェファーソンを支持し、翌年には論功でスペインに大使として赴任した。1804年に帰任後は、サウスカロライナ州の政治に復帰し、州議会議員、知事を務めた。1814年に一旦政界から引退したが、1818年には連邦下院議員に当選し、1821年までこれを務めた。
父親のチャールズが1754年に始めたスニー農場は、1782年にピンクニーに譲られた。ピンクニーは、チャールストンに住み、7つの農園を所有していたが、スニー農場が一番のお気に入りの農園であったという。1791年5月には、ここにワシントンを朝食に招いている。ここでは40-60人の奴隷が牛を育て、米、藍などの栽培に従事していたという。ピンクニー家は60年あまりこの農園を所有していたが、1818年に債務履行のためこの農� �を手放した。現在敷地に建つ邸宅は1820年代のもので、残念ながらピンクニーが所有していたものではないが、ピンクニーの邸宅と同じ場所に建てられ、当時の典型的な南部沿岸地帯の別荘を体現しているという。
独立宣言署名者が56名いたことは比較的知られているが、憲法案署名者はその数(39名)も含め、あまり知られていない。ここは忘れられた建国の父たちがいたことを思い起こさせる場所となっている。
(国立公園局のHP)
美しい町並みと古き良き南部の伝統が色濃く残るサウスカロライナ州チャールストン。サザン・ホスピタリティーを味わえる観光の町として知られるこの町の沖合いに浮かぶFort Sumter(サムター砦)は、アメリカ史上最大の惨事、南北戦争が勃発した場所として知られている。1861年4月12日の連邦軍兵士85名が立て篭もるこの砦への攻撃が、その後4年余り続き、60万人以上の犠牲を払う大惨事の始まりになるとは誰が予想したであろうか。Fort Sumter National Monument(フォート・サムター国立遺跡)では、サムター砦とその北側の対岸にあるFort Moultrie(ムールトリー砦)を保存している。
1.サムター砦
サムター砦は、英米戦争後に、沿岸域防衛のため、米国沿岸に建設された一連の砦の一つである。チャールストン港沖合いの砂州に1829年に建設が始まり、650人の兵力と130基の大砲を備える計画であったが、完成に至らないうちに歴史の荒波に放り出されることとなった。砦の名前は、独立戦争時のサウスカロライナの指導者の一人であったThomas Sumter(トーマス・サムター)に由来する。
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アメリカでは奴隷問題が建国当初から南北が大きく対立する政治問題であった。南部では、奴隷は農場経営のため不可欠の労働力であり、これに対する連邦政府の介入は州の固有の権利と個人の財産権を脅かす問題であると主張され、倫理上の観点から、あるいは工業化が進展する北部での将来の働き手としての期待から、北部の諸州は奴隷制度に反対してきた。このため、アメリカの国境が西に広がるたびに新たな州の奴隷問題に関する位置づけを巡って、国を二分する問題となった。1860年の奴隷制度への反対を公然と唱えるリンカーンの大統領への当選は、この対立を修復不能なまで決定的なものとし、1860年12月24日にサウスカロライナ州が真� �先に連邦離脱を決議し、これにミシシッピー、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナの各州が続き、これら7州は1861年2月9日にConfederate States of America(アメリカ合衆国連合)を結成し、初代大統領にFranklin Pierce(フランクリン・ピアース)政権で戦争長官を務めたJefferson Davis(ジェファーソン・デービス)を選出した。3月には、テキサスがこれに加わった。そして南部諸州は、領域内にある連邦政府施設を次々と接収し始めた。
サウスカロライナ州が連邦を離脱した際に、チャールストン港には4つの軍事拠点があったが、ムールトリー砦にのみ連邦軍兵士が実質的に駐留していた。ムールトリー砦の司令官Robert Anderson(ロバート・アンダーソン)少佐は、より堅固なサムター砦の方がサウスカロライナ州の接収行動を防衛しやすいと判断し、1860年12月26日、85名の兵士とともに密かにサムター砦に移動した。翌日、サウスカロライナの志願兵は、ムールトリー砦を含む3つの軍事拠点を接収した。サウスカロライナ州は、アンダーソンの動きを敵対行動と非難し、連邦政府に明け渡しを要求した。James Buchanan(ジェームズ・ブキャナン)大統領はこれを拒否し、サムター砦に補給船を派遣するが、サウスカロライナはこれに威嚇攻撃を加えて追い返した。3月14日に大統領に就任したリンカーンは、連邦離脱は違法であると指摘しつつ、連邦政府に攻撃が加えられない限り南部諸州を攻撃する意図はないとして連邦への復帰を呼びかけたが、南部は独立承認を迫り、リンカーンはその交渉を行うことを拒否した。この時点で、サムター砦は南部諸州に残された連邦軍の拠点の2つのうちの1つで、リンカーンはこれを守るため、護衛艦つきの補給船を派遣しようとした。
南部諸州は、このリンカーンの動きを軍事行動とみなし、チャールストン司令官に任命されたP.G.T. Beauregard(P.G.T.ビューリガード)准将に、サムター砦に明け渡しを要求し、拒否された場合には軍事行動に出るよう命令した。ビューリガードは、4月11日、アンダーソンに降伏を要求したが、アンダーソンはこれを拒否した。4月12日、4時30分、強硬連邦離脱論者であったEdmundo Ruffin(エドマンド・ラフィン)による第1砲が轟くと、ビューリガード准将指揮の下、サムター砦に対して周りの軍事拠点から一斉に砲撃が浴びせられた。アンダーソン少佐は、ビューリガードのウェスト・ポイント時代の砲撃の教官であったという巡り合わせであった。サムター砦には60基の大砲しかなく、そのほとんどが相手方の攻撃にさらされる3F部分に位置したため、アンダーソンは兵力の消耗を避けるために、7時まで攻撃を控え、攻撃も1F部分の大砲からに限定した。連邦軍側の攻撃の口火を切ったのは、Abner Doubleday(アブナー・ダブルデイ)大尉、野球の創始者と言われる人物である。しかし、多勢に無勢、南軍の砲撃は激しく、側壁は損傷し、士官用兵舎は焼け落ち、弾薬庫が脅かされるに至った。アンダーソン少佐は、4月13日14時に停戦を受け容れたが、34時間持ちこたえた。この34時間の砲撃の中、奇跡的に死者は一人も出なかった。このためアメリカ史上最も流血惨事となった戦争が流血なく始まったと言われている。
連邦政府は、南部を経済的に疲弊させるため、海上封鎖を行ったが、チャールストン港は南軍が占拠していたため、海上封鎖の抜け道となっていた。このため、サムター砦の奪還は、連邦軍の優先事項の一つとなった。南軍は、サムター砦を修復し、さらに強固にした上で、100基ほどの重火器を配備した。1863年4月7日、ワシントンDCのデュポン・サークルに名前を残すSamuel Du Pont(サミュエル・デュポン)海軍少将率いる9隻の鋼鉄船の艦隊がサムター砦を攻撃したが、周りの砲撃拠点からも集中砲火を浴び、5隻が使用不能となった。デュポン少将は更迭され、John Dahlgren(ジョン・ダールグレン)海軍少将が新たにサムター砦攻撃の司令官に任命された。ダールグレンは、サムター砦に最も近いMorris Island(モリス島)を奪還し、そこからサムター砦を攻める作戦を考案した。この島にあるFort Wagner(ワグナー砦)を巡る攻防が次の焦点となった。Quincy Gillmore(クインシー・ギルモア)准将率いる連邦軍は、7月11日の攻撃に失敗した後、7月18日に、黒人兵からなるマサチューセッツ第54歩兵連隊を先陣とする正面攻撃を仕掛けるが、1,000名を超える死傷者を出して失敗に終わった。このため、ギルモアは、包囲戦に切り替え、60日間砲撃に曝し、南軍にこれを放棄させた。しかし、ワグナー砦を押さえても、チャールストン湾の防備は固く、サムター砦に年末まで砲撃を続けても、南軍駐留兵は降伏を拒否し、持ちこたえ続けた。1864年に入り、その年の夏に司令官がJohn Foster(ジョン・フォスター)少将に代わり、再度サムター砦攻略を試みるが、サムター砦は瓦礫の山のようになろうとも落ちる気配はなかった。こうして20ヶ月間にわたり、サムター砦は連邦軍の攻撃に耐え続けたが、シャーマン将軍の部隊がサバンナからチャールストンに北上し、南軍がチャールストンを放棄するに至り、1865年2月17日に南軍駐留兵はサムター砦を放棄した。
戦後、サムター砦は沿岸防衛体制の一翼をなす砦として修復がなされるが、時代は既に砦の時代ではなく、1876年から1897年までは灯台施設として利用されただけであった。米西戦争に際して、防衛強化のため、Battery Huger(ヒューガー砲台)が築かれ、現在もサムター砦の中に残されている。
2.ムールトリー砦
ムールトリー砦の歴史は独立戦争まで遡る。この砦は、イギリス軍の攻撃からチャールストンを防衛するために、1776年にWilliam Moultrie(ウィリアム・ムールトリー)が建造したのが始まりである。やしの木で造られた砦は、Peter Parker(ピーター・パーカー)提督率いる9隻の艦隊による攻撃をしのぎ、チャールストン防衛に一役を買った。このため、サウスカロライナ州はやしの木を模った州旗となっている。
独立直後、フランスやイギリスとの緊張が高まる中、大西洋岸防衛のために1798年に旧ムールトリー砦の跡に新たな砦が建てられた。1804年にハリケーンで破壊された後、レンガ造りの第3次ムールトリー砦が建設された。アンダーソン少佐らがサムター砦に移る前に駐留していたのが、この砦である。
南北戦争での経験を踏まえて、1870年代には、旋条式大砲を備え、コンクリートで固めた砦に改造された。1880年代にはクリーブランド政権下でWilliam Endicott(ウィリアム・エンディコット)戦争長官が委員長を務める沿岸部に設置された砦の近代化を審議する委員会の勧告に従い、コンクリートと鉄筋を用いた強固な砲台がムールトリー砦内に設置された。第2次大戦時には、空と潜水艦への脅威に備えるため、対空射撃砲や機雷管理センターが設置された。現在、ムールトリー砦は、最初のやしの木でできた砦の跡から第2次世界大戦時の対空射撃砲まで時代を経て変遷してきた港湾防衛の姿を見せてくれている。
(国立公園局のHP)
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ジョージア州とフロリダ州の州境近くの大西洋沖にCumberland Island(カンバーランド島)と呼ばれる島がある。長さ17.5 マイル (28 km) の細長い島は、土砂が波により打ち寄せられてできた堡礁島の一種である。この島へは道路によるアクセスはなく、対岸のSt. Mary(セント・メアリー)からツアー船に乗る必要がある。島への上陸者も300名/日を超えないようにコントロールされており、ハイキング、サイクリング、海水浴、ビーチの散歩、貝殻拾いなどで、静かな時間を過ごすことができる。カンバーランド島の名前は、ジョージア植民地の創始者James Oglethorpe(ジェームズ・オグレソープ)がイギリスのカンバーランド候にちなんでつけたものである。
この島は、本土に近い部分から大西洋側に向けて大きくその様相を変え、驚かされる。島の西側には、一面に湿地帯が広がる。潮の満ち引きにより海水が流れ込み、豊かな栄養素がもたらされる。背高の草が生い茂り、その隙間を水が満たしている。豊かな栄養素と草原の隠れ家を得て、小さな魚や貝、カニなどが繁殖し、それを狙って鳥類やアライグマなどが集まってくる。カンバーランド島には野生の馬も棲んでおり、ゆっくりと塩辛い草を食んでいる。
湿原を超えると、スペイン苔が生えた樫の木やヤシの木の鬱蒼とした森が広がる。さながら密林のジャングルのような景色が展開している。この中のトレールを歩くと未開地を歩むような感じがする。カンバーランド島のジャングルの中には、かつて鉄鋼王Andrew Carnegie(アンドリュー・カーネギー)の弟のThomas Carnegie(トーマス・カーネギー)夫妻が建てた別荘の残がいが滅び去った文明の遺跡のような姿をさらしている。1783年に独立戦争の英雄Nathaniel Green(ナザニエル・グリーン)将軍はカンバーランド島に土地を購入し、その未亡人Catherine Greene(キャサリン・グリーン)が貝殻を細かく砕いたものを原料とするTabby(タビー)と呼ばれるセメントで4階建てのDungeness(ダンジェネス)と呼ばれる屋敷を築いたのが始まりである。1880年にカーネギー夫妻はカンバーランド島のほとんどを購入し、1884年にかつてダンジェネスがあった場所に59の部屋を誇る同じくダンジェネスと呼んだ屋敷ほか40の建物を築いた。しかし、1959年の火事で大破し、現在までそのままとなっている。また、島の別の場所には、カーネギー夫妻が息子のGeorge(ジョージ)夫妻のために1898年に建てたPlum Orchard(プラム・オーチャード)が現存しており、豪勢な生活ぶりを今に伝えている。
ジャングルを抜けると丈の低い草原に変わり、やがて見渡す限り南北に一面に広がる砂浜に到着する。ここにはシギ類やアメリカコアジサシなどの浜鳥がトコトコ歩き、スナガニなどのカニがさっと横切る。ミサゴやファルコンが空を舞う。この砂浜は、Loggerhead Turtle(アカウミガメ)の貴重な産卵場所にもなっている。見渡す限り続く大西洋は私たちがちっぽけな存在だということを感じさせてくれる。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
英米戦争で簡単にイギリス軍に首都ワシントンDCを落とされた反省から、戦後、Third System(第3システム)と呼ばれる米国沿岸域の主要港を守るための砦建設が始められた。ジョージア州の主要港サバンナも例外ではなく、1829年にサバンナ川河口のCockspur Island(コックスパー島)に工兵隊のSamuel Babcock(サミュエル・バブコック)少佐の指揮の下、巨大な砦の建設が開始された。バブコックの補佐に充てられたのが、陸軍士官学校を卒業したばかりのRobert E. Lee(ロバート・E・リー)少尉であった。リーは、測量、護岸・排水工事などを担当した。病弱なバブコックに代わって、1831年にJoseph K. Mansfield(ジョセフ・K・マンスフィールド)少尉が着任し、工事の指揮をとった。リーは、ヴァージニア半島のFort Monroe(モンロー砦)の建設に配置換えとなった。マンスフィールドは軟弱な地盤を考慮し、設計を変更して砦を一階建てに修正した。そして総工費百万ドル、2,500万個のレンガと18年の歳月を要して1848年に砦は一応の完成を見、独立戦争の際にサバンナ攻略のため騎兵隊を率いて戦死したポーランド人将校Count Casimir Pulaski(カウント・カシミール・プラスキー)将軍の名前をとって、Fort Pulaski(プラスキー砦)と名付けられた。Joseph G. Totten(ジョセフ・G・トッテン)工兵隊長は、プラスキー砦を評して、「ロッキー山脈を爆撃する方がよい」と述べたという。プラスキー砦は、完成したものの、兵員の配置は見送られた。
1861年1月3日、サウスカロライナ州が連邦政府を離脱して2週間後、風雲急を告げる中、ジョージア州知事Joseph E. Brown(ジョセフ・E・ブラウン)は、州兵にプラスキー砦の占拠を命じた。ジョージア州が1月19日に連邦政府を離脱すると、プラスキー砦はアメリカ連合政府(南部)に移管された。1862年4月プラスキー砦にはCharles H. Olmstead(チャールズ・H・オルムステッド)大佐以下385名の兵士が配備されていた。プラスキー砦の対岸のTybee Island(タイビー島)は、1マイル(1.6km)以上離れており、当時の常識では1,000m以上離れた場所からの大砲による攻撃では分厚いレンガの壁を打ち破ることはできないと言われていたため、プレスキー砦は難攻不落と思われていた。
連邦軍のQuincy A. Gilmore(クインシー・A・ギルモア)大尉には秘策があった。ギルモアは、タイビー島に11の砲台を築き、36の大砲・迫撃砲を備え付けた。この中には、新兵器の施条式大砲が10基含まれていた。施条式大砲は、砲身にらせん状の溝が刻み込まれており、この結果、発射される際に砲弾に急速な回転が加わることから、砲弾をより遠くより速くより破壊力をもって標的に到達させることを可能としたものであった。4月10日、プラスキー砦守備隊が降伏を拒否したのを受けて、ギルモアは攻撃を命令した。施条式大砲の威力はすさまじく、翌日にはプラスキー砦の南東の角に亀裂が生じ、そこから注ぎ込まれる砲撃が砦の火薬庫を脅かすようになった。ここに至りオルムステッド大佐は降伏を選んだ。爆撃開始からわずか30時間しか経っていなかっ た。プラスキー砦の守備隊は捕虜となり、ニューヨークのGovernor's Island(ガバナーズ島)に送られた。ギルモア大尉は一躍ヒーローとなり、准将に昇進した。
この戦いの結果、英米戦争以降、巨額の投資により築き上げてきた沿岸部の要塞砦が旋条式大砲という新兵器の出現によって全て時代遅れのものとなったことが明らかとなった。また、連邦軍がサバンナ港を掌握したため、この港からのヨーロッパとの貿易は停止され、南部に経済的打撃を与えることとなった。サバンナに進駐したDavid Hunter(デービッド・ハンター)司令官は、軍令第11号を発し、フロリダ、ジョージア、サウスカロライナの奴隷を解放するよう命令した。後にこの命令は、境界州の南部への寝返りを恐れるリンカーンによって撤回されたが、プラスキー砦は自由な身分を目指す黒人奴隷の逃亡先となった。
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南北戦争末期には、プラスキー砦は捕虜収容所として使用された。チャールストン攻防戦で南軍がチャールストンへの爆撃を止めさせるために北軍の捕虜を盾に使った対抗策として、南軍下士官捕虜600名がFort Delaware(デラウェア砦)からチャールストンの北軍最前線のMorris Island(モーリス島)に送られた。黄熱病の流行のため南軍が北軍捕虜を別の場所に移したため、南軍捕虜520名はモーリス島から解放されプラスキー砦に送られた。しかし、南部での北軍捕虜の虐待の対抗策として十分な食糧、衣料などが支給されなかったため、1865年3月にデラウェア砦に再移送されるまでの間に南軍捕虜のうち13名が死亡する結果となった。この600名はImmortal 600(不死の600名)と呼ばれている。さらに終戦時には、プラスキー砦には、南部の国務長官Robert Hunter(ロバート・ハンター)、財務長官George Trenholm(ジョージ・トレンホルム)、戦争長官James Seddon(ジェームズ・セドン)、サウスカロライナ州知事Andrew Magrath(アンドリュー・マグラス)、アラバマ州知事Andrew Moore(アンドリュー・ムーア)、フロリダ州知事Alexander Allison(アレキサンダー・アリソン)などの蒼々たるメンバーを収容したとの逸話も残っている。
プラスキー砦は、戦後、ギルモアの手によって、施条式大砲対策の補強工事が行われたが、1880年には軍事施設としての使用は停止された。国立遺跡として保存される現在も、南北戦争当時の砲撃の跡が一部そのまま残されており、爆撃のすさまじさを偲ぶことができる。
(国立公園局のHP)
アメリカは独立戦争でイギリスから独立したが、イギリスが北アメリカに勢力を拡大するに当っては、原住民との紛争の他に、他のヨーロッパ列強と支配権を巡り争わなければならなかった。イギリスは、1607年にヴァージニアにジェームスタウンを築き、そこから南北に触手を伸ばしていった。スペインはそのときには既にフロリダに拠点を築いていたが、たびたびイギリスの侵攻に遭っていたため、1695年にセント・オーガスティンに難攻不落のCastillo de San Marcos(聖マルコの城) を築き、イギリスの動きを警戒していた。イギリスは、メインからカロライナに至る地域を支配下に置いたものの、フロリダのスペインの動きを警戒していた。
このような状況の中、イギリス本国では、失業者や借金の返済が不能となり、収監された貧しい人々の処遇が社会問題となっていた。James Edward Oglethorpe(ジェームズ・エドワード・オグレソープ)は、これらの人々に再出発の機会を与えると同時に、懸念されるスペイン勢力への対抗措置として、カロライナの南にスペインへの防波堤としての植民地を築くことを提案した。1732年、オグレソープは、ジョージア植民地の特許を国王ジョージ2世から取得した。この特許によるとジョージアは、理事会が統治し、オグレソープも理事に任命されたが、理事はジョージアでの土地や給与の取得は禁じられていた。にもかかわらず、オグレソープは、114名の職人とその家族などともに、サウスカロライナに渡った。オグレソープは、さらに南に航海し、現在のサバンナ付近の土地をクリーク族から取得し、1733年にサウスカロライナで休む植民者を呼び寄せた。こうして始まったサバンナには 、借金返済不能者ではなく、実際には職人、商人、宗教的迫害者などが集まった。
オグレソープは、スペインの来襲に備えるため、サバンナから南に下り、植民者とともにSt. Simon Island(セント・サイモン島)に要塞都市を築くことを計画し、116名の人々と塀で囲まれた町づくりを開始した。こうして1836年に出来上がった要塞都市は、Frederick(フレデリック)王子にちなみ、Frederica(フレデリカ)と名づけられた。フレデリカは、フレデリカ川の川面に砦が築かれ、後背地は60フィート(18m)X90フィート(27m)の84の区画に分けられ、植民者に分配された。現在もその跡が見てとれる。建物の多くには、Tabby(タビー)と呼ばれる牡蠣などの貝殻を砕き、砂と水を混ぜて作ったコンクリートが使用された。植民地を守るためには軍隊が必要である。このため、1837年にオグレソープはイギリスに戻り、翌年630名のイギリス軍一連隊とともにジョージアに帰還した。さらにセント・サイモン島の南にもFort St. Simon(セント・サイモン砦)を築き、スペインの侵攻に備えた。
1739年にスペインとイギリスとの間に大西洋・カリブ海の貿易の覇権を巡る戦い(War of Jenkin's Ear:ジェンキンの耳戦争)が勃発すると、オグレソープは、フレデリカの守りを固めるだけでなく、1740年にスペインに先制攻撃を仕掛け、イギリス軍900名とセミノール族1,100名でセント・オーガスティンの聖マルコの城を27日間包囲した。しかし、聖マルコ城の厚い防御を破ることができず、退却した。スペインは1742年7月に反撃に出る。フロリダ知事のManuel de Montiano(マニュエル・デ・モンティアーノ)は50隻の軍艦と2,000名の兵士を伴い北上し、フレデリカ砦に向かった。迎え撃つオグレソープには900名の軍勢しかなかった。7月5日、スペイン軍は、セント・サイモン砦の砲撃をかわし、その北に上陸し、翌日セント・サイモン砦を落とした。さらに200名の先遣隊をフレデリカ砦に向かわせた。オグレソープは、迎え撃った。スペイン先遣隊退却後、オグレソープは、沼地の茂みに兵を潜ませ、スペイン軍本隊を待った。スペイン軍数百名が進軍してくる中、イギリス軍はマスケット銃で銃弾を浴びせ、スペイン軍を退却させた。イギリス軍の激しい抵抗に戦意を喪失したスペイン軍はフロリダに引揚げた。オグレソープは、1743年に再度セント・オーガスティンを攻撃するが失敗に終わった。これ� ��降、スペインがジョージアを脅かすことはなかった。
平和の到来に伴い、要塞都市としてのフレデリカの意義は失われた。オグレソープも1743年にイギリス本国に召還され、以来ジョージアの土地を踏むことはなかった。1749年にはフレデリカに駐留するイギリス軍も解散となり、フレデリカは急速に寂れていき、1758年の火災以降は、廃墟が残るのみとなった。
(国立公園局のHP)
メリーランド州のモンゴメリー郡に端を発し、33マイル(55km)蛇行しながら、ポトマック川に注ぎ込むRock Creek(ロック・クリーク)は、ワシントンDCにおける都会のオアシスともいうべき場所である。ロック・クリークは、ピエドモント台地の北端の部分を刻み込み、ちょっとした峡谷を形成している。ロック・クリークのワシントンDC寄りの9.3マイル(15 km)、幅1マイル(1.6 km)の峡谷は、ロック・クリーク公園として国立公園局が管理しており、ジョギング、ハイキング、サイクリングなどのため人々が訪れている。かつてはセオドア・ルーズベルト大統領がよく乗馬に訪れていたという。峡谷に沿って走るBeach Drive(ビーチ・ドライブ)は、平日は通勤道路として使用されているが、週末はサイクリストに開放される。ロック・クリーク公園には、乗馬場、テニスコート、自然博物館、プラネタリウム、野外劇場、ゴルフ場など、様々な楽しみ方ができるように施設が配置されている。
ロック・クリーク公園では、四季が織り成す豊かなロック・クリーク峡谷の自然を楽しむ他に、その区域にはいくつかの歴史的な建造物が含まれており、ロック・クリーク公園を訪れた際には、こちらも訪れるとよい。かつてはロック・クリークの水を利用して、現在のワシントンDCの区域内に8つの製粉所があったというが、現在はスミソニアン動物園の北にIsaac Pierce(アイザック・ピアース)が1820年に建てた製粉所が残っている。
ロック・クリークの河口の近く、ジョージタウンのショッピング街の真っ只中には、Old Stone House(オールド・ストーン・ハウス)と呼ばれる18世紀に建てられた一般人の石造りの家が残されている。
また、ロック・クリーク公園の区域内には、南北戦争当時に首都ワシントンDCを防衛するためにその周辺に設けられた砦の跡がいくつか残っているが、中でも最も重要なのがFort Stevens(スティーブンス砦)である。ここは1864年7月10日、モノカシーの戦いに勝利した南軍が唯一首都ワシントンDCを脅かした場所で、状況視察にきたリンカーン大統領が南軍の狙撃兵に狙撃されるという事件も起きている。リンカーンが狙われた場所には、マーカーが建てられている。
ロック・クリークから離れた場所にあるMeridian Hill Park(メリディアン・ヒル公園)は、イタリアン・ルネッサンス様式の噴水が印象的な公園である。
ロック・クリーク公園は、ロック・クリーク峡谷の他にも、Glover-Archbold Park(グローバー・アーチボルド公園)、Dumbarton Oaks Park(ダンバートン・オークス公園)、Palisades Park(パリセーズ公園)など、その周辺の緑地帯もその区域に含んでいる。これらの公園にもトレールが整備されており、静かに緑の散策をすることができる場所となっている。
ロック・クリークの周囲の緑だけで、ニューヨークのセントラル・パークの2倍以上の面積を誇るという。つくづくワシントンDCは緑多き首都だと感じさせられる。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
1821年にWilliam Becknell(ウィリアム・ベックネル)によって開拓されたミズーリー川とメキシコ(サンタフェ)を結ぶルート、サンタフェ・トレールは、間もなくロッキー山脈の毛皮や中西部のバッファローの毛皮と東海岸で製造された工業品や贅沢品とを交換するワゴン車が行き来するメジャーな交易ルートとなった。1833年に、このサンタフェ・トレールの北側のルート上に、当時のアメリカとメキシコの国境のアーカンソー川のほとりに、サンタフェ・トレールの中心的な交易所が建てられた。この交易所は、設立者であるBent(ベント兄弟)の名前をとって、Bent's Fort(ベントの砦)と呼ばれ、未開のフロンティアの異文化間の交易・社交の場となった。現在、ベントの砦があった場所に交易所の建物が再建され、Bent's Old Fort National Historic Site(ベント・オールド・フォート国立史跡)として保存されている。(当時の交易ルートは、ここ(PDF)を参照。)
このベントの砦を設立したベント兄弟は、兄Charles(チャールズ)、弟William(ウィリアム)の二人である。兄チャールズは1799年に現在のウェスト・ヴァージニアのCharleston(チャールストン)、弟ウィリアムスは、1809年にセント・ルイスで生まれた。父親はセント・ルイスで判事を務めた人物であったが、ベント兄弟は全く違う毛皮商の道を志し、アーカンソー川流域でビーバーを捕獲していた。1829年には、二人はワゴン車を仕立てて、サンタフェまで交易に出かけている。同じ年、ウィリアムはコマンチ族からCheyenne(シャイアン族)の若者二人を匿い、命を救ったことから、シャイアン族と良好な関係を築くことができた。
1830年には、ベント兄弟は、地元の交易商Ceran St. Vrain(セラン・セント・ヴレイン)とチームを組み、Bent, St. Vrain & Company(ベント=セント・ヴレイン商会)を設立し、サンタフェやTaos(タオス)に店を構え、サンタフェ・トレールの交易品の輸送に従事した。このときに、サンタフェ・トレールの途中に交易所兼休憩所を設ける案を思いつき、1833年にベントの砦と後に呼ばれる交易所を設立した。3人のうち、ウィリアムがこの交易所のマネージャーとなった。ウィリアムが原住民との良好な関係を築いていたため、シャイアン族やArapaho(アラパホ族)はバッファローの毛皮をここに持ち込み、バッファローの毛皮の一大出荷地点となった。また、サンタフェ・トレールの旅人にとっては、2ヶ月のサンタフェ・トレールで唯一安心して休憩し、補給できる場所となった。また、交易所は事実上の中立地点として、原住民部族間の紛争解決や連邦政府と原� ��民との間の話し合いの場所となった。1837年にウィリアムはシャイアン族の酋長の娘と結婚し、原住民との関係はさらに親密なものとなった。やがてベントの交易所は、アメリカ西南部の原住民との一大交易所に発展した。
1846年に米墨戦争が勃発すると、ベントの砦はアメリカ軍がメキシコに攻め込む拠点となった。Stephen Watts Kearny(スティーブン・ワッツ・カーニー)大佐率いる部隊は、ベントの砦で補給し、メキシコ領内に攻め込んだ。しかし、メキシコ軍は現在のメキシコ領に撤退したため、連邦軍はチャールズを臨時ニューメキシコ知事に任命し、メキシコ軍を追いかけ、さらに南進した。しかし、1847年1月19日のタホの反乱により、アメリカの支配を嫌う旧メキシコの人々にチャールズは殺されてしまう。アメリカ軍の後には、探鉱者や開拓者が押し寄せるようになり、原住民との間の争いも増え、ベントの砦での商売は次第に困難になっていった。ウィリアムは、サンタフェ・トレール付近に拠点を集約しようとしている軍にベントの砦を売ろうとしたが、あまりにも低い評価しか受けなかったため、1849年にこれを爆破した。
ウィリアムは、1857年に 38マイル下流の場所で交易所を再開するが、その2年後にコロラド・スプリングス近くのPikes Peak(パイクス・ピーク)で金が発見され、ゴールド・ラッシュが起こると、ウィリアムの交易所は人の流れから取り残されてしまった。さらに1864年11月29日Sand Creek(サンド・クリーク)でシャイアン族が虐殺される事件にウィリアムの家族も被害者として巻き込まれ、この結果、息子のチャールズはシャイアン族による白人追い払い闘争に加わるなど、ウィリアムは思いもかけない運命のいたずらに巻き込まれ、失意のうちにカンサスに引揚げ、1869年に亡くなっている。
ベントの砦があるコロラド州南東部はカンサスの続きで平原が続き、強い風が吹くと砂埃を巻き上げ、タンブリング・ウィードが道を横切っていく、西部劇に出てきそうな風景である。ベントの砦は、当時の様子を忠実に再現し、開拓時代の西部を偲ばせている。
(国立公園局のHP)
コロラド州の南部、Sangre de Cristo Mountains(サングレ・デ・クリスト山脈)の麓に巨大な砂丘が広がっている。この砂丘は、Great Sand Dunes(グレート・サンド・デューンズ:巨大な砂丘)と呼ばれ、全米で最も高さの高い砂丘である。この砂丘を含む一帯は、Great Sand Dunes National Park and Preserve(グレート砂丘国立公園・自然保護区)に指定され、保護されている。
ロッキー山脈がコロラド州の南でサングレ・デ・クリスト山脈とSan Juan Mountains(サン・ファン山脈)に分かれ、両山脈に囲まれる台地は、San Luis Valley(サン・ルイ・ヴァレー)、地元ではValley(ヴァレー)と呼ばれている。このヴァレーは、比較的乾燥した気候の耕地で、人々は干草の栽培、牧場の経営などで生計を立てて暮らしている。この地域は野生動物も豊富で、鹿、エルク、プロングホーン、ブラックベアー、コヨーテなどが生息している。そこに突然巨大な砂丘が横たわっている。
サン・ルイ・ヴァレーには、かつて巨大な湖が存在したとされている。この湖は気候変動などにより次第にその姿を消し、かつての湖底には広く堆積した砂の層が姿を現した。ここにサン・ファン山脈から南西の風が吹き降ろし、積もった砂を運び去っていき、風はサングレ・デ・クリスト山脈にぶつかり、その手前で砂を落としていく。一方でサングレ・デ・クリスト山脈から北東の風がとりおり吹き、二つの風がぶつかり、砂の山を高くしていく。ここにサングレ・デ・クリスト山脈から流れるMedano Creek(メダノ川)とSand Creek(サンド川)が山を少しずつ削って土砂を運びおろし、この砂の山にさらに砂を加えていく。このプロセスが長年続き築き上げられたのがグレート砂丘である。このプロセスがどのくらい続いたのかは、現在でもはっきりわかっていない。現在では2つの方向が違う風の力が拮抗し、ほぼ安定した状態にあると言われている。
グレート砂丘の東側には、4,053mのMount Herard(ヘラード山)をはじめとしてサングレ・デ・クリスト山脈の3,000mから4,000m級の山々が連なっており、砂丘と美しいコントラストを形成している。グレート砂丘の西側にあるStar Dune(スター砂丘)は750フィート(229m)の高さに上り、この砂丘の最も高い地点となっている。次に高いのは、High Dune(ハイ砂丘)、650フィート(198m)である。
この公園の楽しみ方は、何といっても砂丘登りである。200mというとたいしたことがないと思われるかもしれないが、砂で足元がとられるため、なかなか進むことができず、かつ、傾斜が急な場所は滑ってしまい先に勧めないため、傾斜の低い斜面を選んでこれをたどって登らなければならない。このため、思ったより時間と体力を要し、1時間以上かけないと頂上まで登ることができない。さらに夏場は、太陽光で砂が熱く熱せられるため、昼間は砂丘登りには不向きで、朝方、夕方しか砂丘登りを楽しむことができない。これまで3度挑戦したが、いずれも途中で息が切れてしまい断念してしまった。本格的なハイカーであれば、クリークをつたって、砂丘の東側のサングレ・デ・クリスト山脈をハイキングする楽しみ方もある 。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
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