J. Lewis Farley, Modern Turkey, 2nd. ed., London, 1872; pp.113-133.
(J. L. Farley was the consul of the Sublime Porte at Bristol)
『トルコの婦人達:Turkish Women』 EFENDI.jp
ウージェニー皇后(*ナポレオン3世の妻。1869年に訪土)のトルコの首都への訪問は、当然トルコ人女性の社会状況に多くの関心が向けられる原因となるだろう、と期待されていました。
フランスの新聞はまず確実に起こるであろう結末に夢中でした。彼らによれば、皇后陛下がベールを取って顔をあらわにしたことが、陛下の帰国以前に(トルコに)贅沢禁止革命を生じさせたのです。それはヤシュマック [yashmak] (*ベール)を取り、パプーシュ [papoosh] (*サンダル)をルイ16世風のブーツに取り替え、さらにフェリジー [feridjee] (*パンタロン)やゆるい女性用のズボンをパリで最先端の流行のマントやスカートに取り替える、といったものです。
革命はそれだけにとどまりませんでした。ハレム生活およびあらゆる嫉妬ぶかい制限は直ちに廃止されました。宦官たちは博物館で働き始めましたし、女性たちの鳥かご(*ハレム)はその後にフランスの上流社会 [monde] と同じくらいの自由を享受するようになりました(売春婦たちの世界 [demimonde] のようではありません)。
しかしながら、私があえて言う必要はないのだけれど、これらすべてはパリの新聞界のライターたちの想像の中でのみの現実なのです。皇后のベールを取った美しさは、それを見たトルコ人女性に何らかの影響を与えたかもしれませんが、ヤシュマックやフェリジー、ゆるい女性用ズボンが今も彼女たちの国にあることは事実なのです。
実は、女が男に媚を売るための、両目以外のすべてを覆い隠す古臭く不透明な覆いは、いまや綿モスリン(*イギリスの機械製の布)など一切残さないほどに透けて見える薄い布地にとって代わり、それとともに着用者の装身具一式も気軽なものに変わりました。
きめの細かいベールの下には輝く両目が瞬き、真珠のような歯が人を眩惑し、もはや覆い隠すのに役立たないどころか、むしろ着用者生来の美しさに色取りを添えています。 黄色いパプーシュもヨーロッパ製のゴム布のブーツに大幅に押されています。ルイ14世は嫌悪しましたが、かの「高貴なるグリーシャンベント(*1870年ころに流行した夫人の前かがみの歩き方)」は今までのところ神のおかげをもちましてスタンブル [Stanbul] 界隈では受け入れられておりません。
しかしながら、パリの新聞の大げささと無意味さは、西欧で今なお一般的なトルコにおける女性の状態と扱いに関する偏見とまったく合致したものです。これによれば、トルコ人は多かれ少なかれみな「青ひげ(*6人の妻を次々に殺したという伝説状の男)」であって、少なくとも4人の妻を娶り、さらにできるだけ多くの妾を囲っている — トルコの女性はほとんどみな亭主の気まぐれの虜であり、宦官によって拘置され、家庭での権威など一切ない、ということです。そんな非現実的なことがあるでしょうか。そのような楽園のような[生活を送る]ものは少数であり、一夫多妻は早々に廃れていっているのです。
今の世代のムスリムでは、わずかな人々が2人以上の妻を娶っていますが、圧倒的な大多数が1人だけを娶っているのです。つい先ごろ死んだ大宰相や彼の閣僚のほとんどはやはり一夫一婦婚でしたし、例外を除いて海軍士官たちもみなそうである、と私は確信しています。女奴隷というのもまた大変高価で、非常にまれな「贅沢品」なのです。
トルコでは、ここ西洋と同様に、妻たちは自分たちの諸権利である古きよき時代のより緩やかな習慣のすべてについて取り上げられまいと用心しております。近頃では彼女たちは非合法のライバルたち(*妾)に強硬にかつ効率的に抵抗しています。
実際のところ、妻は今日の西洋の妻たちのように「彼女の家庭」の女主人であり、どちらかといえばまずまず以上の権威を家庭では持っています。そのため、かんぬきで守られた刑務所のようなハレムなどは存在せず、むしろそれは可能な限り慈悲ぶかく心配事や困難が締め出された聖域なのです。
男性は常に一家の稼ぎ手です。彼が生活にかかわる心配事を一身に背負う一方で、女性は自らの日々を過ごしています。
それはアルカディア(*牧歌的な理想郷)のような無邪気で穏やかなものではありませんが、少なくとも退屈とは無縁であり、西洋の女たちを慰めている罪のない楽しみとは必ずしも同じではありません。オスマン人の家庭に見出される「価値のつけられないほどの真珠」と称せられる女性の貞節以上のものはヨーロッパのどこにも見出せないでしょう。
もっとも、不幸なことにトルコ人も悪しきことから自由であるわけではなく、アルプスのこちら側(*北側)によく紹介されることですが、彼らとは別のところにもうひとつの悪魔 — 社会的な悪魔(*公娼) — があります。
帝国の諸法は女性にも平等に保護を与えるよう組み立てられていました。たとえ政策の変更が夫に影響を及ぼしたとしても、妻の財産は常に守られました;
いかなる状況の下でもそれは彼女の所有物として残されます。ちょうどイギリスで夫の負債が返済によって保証されるなら妻は、その財産がどれほど多くとも、その責任を問われないように。これには彼女の財産のすべてが適用されます — 結婚前に所有していたものばかりでなく、後から獲得していったものも含みます。一方、もし彼女の夫が彼女の名義で土地や家を購入したなら、それらは絶対的に彼女の所有するところとなり、夫に対するいかなる請求もそれらに達することはありません。
トルコ人女性が働くにあたってわずかな障害となっているもの(*ヤシュマック)は、彼女らの生活における比較的プライベートな部分であり、彼女たちの容姿を部分的に世間の目から包み隠しているのだけれど、それは単に原始的で粗野な時代の名残であるに過ぎず、彼女たちが侮辱や無礼な振る舞いから守られるという点で便利なものでもあります。
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またヤシュマックは宗教的な制度というわけではありません。 農村部の女性たちはまったく[ヤシュマックで顔を]覆うことはありません。トルクメン [Turkoman] の女性はクルド人やアラブ人と同じように覆うことなく往来します。ボスニアでもそうです。既婚女性こそヤシュマックを着けますが、若い娘たちは素顔をさらけ出し、うっとりと眺められれば実にうれしそうにします。
コンスタンティノープルのムスリム女性たちが今、公の場ではヤシュマック有りと無しではどちらでいたいか、と質問されたり尋ねられたりしたなら、彼女たちは多分こう言うでしょう:
「ええ! 確かにあたしは皆があたしのことを見たり眺めたりできたほうがいいなあとは思いますけど、うちの亭主が私より美人の他の女性を見るチャンスができるのはごめんです。」
トルコ人女性はその美しさにおいて世界中のどの国の女性と比べても遜色ないことでしょう。彼女たちはかなり教養が欠けているものの、それを補うかのように上流階級では流行に敏感であり、また布告による新しい法律は帝国全土のすべての階級の人々に教養を十分に提供することとなったのです。
この布告による効果は、実質的な価値はしばらくは微々たるものですが、それは少なくとも教養の不足を政府にそれとなく認識させ、それに対処する方向に促すことでしょう。それはトルコの女性を個人的にも社会的にも高めるばかりでなく、それでいて確実に西洋の流行の猿真似や西洋の諸道徳の受容とはならないでしょう。
実際のところ、この真の「革命」の効果を上げるまでは、彼女たちの素朴な生活習慣のほうが、パリやロンドンのコステュム・デコルテ(*夜会服)や倫理面における放縦さなどより、私は好ましいです。トルコのハレムが他のそれ(*西欧のサロン)に変わるその日こそ、それはトルコにとって災厄の日となることでしょう。
モハメッドは天国から女性を締め出した、というのがこの国では一般的に信じられていますが、コーランの第3章、4章、13章、14章、40章、60章を読むことが、逆に、女性の悪しき行動のみが罰せられるのであり、善き行いは報われて、神は性差の点で差別をしないのだ、ということを学ぶために唯一必要なことです。ある老女が預言者に、自分は天国に入れるだろうか、と尋ねたところ、彼は「否」と答えた、というエピソードが[西欧人の偏見に]関係しているのは間違いありません。しかしそのとき彼は、「あなたが今ある状態ではなく、神は[天国の]門にいるあなたに若さと美しさを回復させてくれるであろう」と付け加えたのです。(1)
もう1つ一般的に信じられていることに、一夫多妻制は全人類の進歩の障害になっている、ということがあります。しかしイスラム教が10世紀間に渡って人類の先頭を突き進んでいったのは事実です。一夫多妻制がギリシャでの芸術上の傑作の作成を妨げたということもありません。[イスラム世界では]一夫多妻制が一夫一婦制へ向かっていったということはなく、それはむしろギリシャ文学の研究へ向かっていったのです。われわれは自分たちのルネサンス文学をそのギリシャ文学研究に負っています。ルネサンスは精密な科学故に堂々と思想の自由と称されていますが、われわれはそれをイスラム教に負っているのです。
トルコ人は実際に一夫多妻制を採用しています。しかしそれは彼らだけではありません。地球上の7億5千万の人を除く、残りの5億の人々が一夫多妻制を採っているのです。キリスト教徒は今でこそ一夫一婦制を採っていますが、ずっとそうだったわけではありません。たとえばフランスの初期の国王たち、彼らは善きキリスト教徒ではありましたが、複数の妻を持っていたのです。 Gontran 、ヒルデベルト(*パリ伯。後のメロヴィング1世、在位511‐558)、ダゴベルト1世(*フランク王国国王。在位629‐639)はそれぞれみな3人の妻を持っており、中でもダゴベルトの叔父である Clodomir は4人[の妻]を持っていました。
われわれはみな多かれ少なかれ環境や習慣の申し子であります。そしてわれわれは自分たちの諸制度こそ他の諸々よりも優れていると思いがちです。しかし、爾来一夫多妻の行いが非難されたとき、まったくそれの持つ利点を確かめることもなく、一夫一婦制がどれほど優れているのかを確かめることもありませんでした。われわれは統計によって一夫一婦制の結末を認識することができます: — 売春、幼児殺害、堕胎、内密の一夫多妻、姦通などのことです。
一夫多妻について言えば、モハメッドが現れたとき、アラブ人は200人もの妻を合法的に持つことができたのに、モハメッドは4人に数を制限した、と述べるのは嘘ではありません。一方、コーランによれば、一夫多妻者に課される規則として、彼は願望のみでなくその財産においてもその乱用を十分に防ぐことが要求されました。女性は自分の望みに反する結婚の強要されることはありません;女性は結婚する際に、考えられる限りの有利さ、そして女性が常にそうであるように、夫の打ち解けた保護者という側面、夫の満足が自分の幸福であること、これらを見出すことに全力を傾けます。
さらに、ワインと賭け事の禁止は、夫の蛮行に対する妻への真の予防手段となっています。酩酊と賭博は家庭の平和を打ち壊すものです。それらを呪ってイスラム教は主婦のために積極的な保証を提供したのです。それは生真面目なキリスト教の説教師のプラトニックな勧告などよりよほど効果的です。
一方、夫からの結納の規定は合法的な結婚においては欠くことのできない条件です;結納や遺産の分配が妻に与えられ、彼女の管理下に置かれたために、それは一部の夫たちの不正に対する安全保障となりました。夫婦生活はコーランの言葉で規定されています。 — があります。(第2章 第5節)「妻たちは夫に従順でなければならず、自分たちに委ねられた義務を果たさなければならない。また夫たちは妻たちを公正に扱いつつ、彼女たちに対して権威を持たなければならない。」
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コーランは常に男は女より優れているといいますが、それにもかかわらずトルコ人は妻たちに親切であり、その情愛はこまやかです。その親切さは生真面目なものであり、夫は上位者として自分の幸福には欠くことのできない弱きものを守っています。彼は妻を神より授けられた大いなる祝福とみなしており、他のいかなる所有物よりも妻に重きを置いています。彼は嫁に持参金を要求するのではなく、かえってそれを与えます。さらに彼は妻の親類へも贈り物をします。これも何ら受け取ることはありません。夫は外の問題を管理し、一方妻は家庭を管理します。両者の義務はもともと彼女の下に置かれています。
私が博識な神学者にいささか教わりたいと願っているのは、なぜ男性は社会的な関係において、キリスト教の法の下でよりも、モハメッドの法の下での方がずっと善く在れるのか、ということです。女性を打つトルコ人など聞いたことがありません。トルコ人男性は常に女性、子供、物言わぬ哀れな動物に対してやさしいのです。ペラの通りで犬が傷を負って吠えていたとしても、それはトルコ人が殴打を加えた結果ではないと確信できます。トルコ人は誠実であり、嘘を軽蔑します。トルコ人はまじめで、節度があり、酔っ払ったり、賭け事をしたりしません。トルコ人は自らの他人への行動に誇りを持っており、隣人にはやさしく、貧しい者には慈悲深さを示します。トルコでは、パンを特に必要とする男も女も子供も存在せず、餓死� ��非常にまれなものです。同じことがキリスト教諸国について言えるでしょうか?
西欧で一般的に信じられていることに、ハレムはムスリム女性にとってしっかりと監禁される牢獄である、ということがあります。しかし「ハレム [harem] 」という単語は単に女性に割り当てられた家の一画を言うのであって、同じようにして「セラームリッキ [selamlik] 」という単語が男性に割り当てられた一画を指します。見知らぬものがハレムに入ることは、それが夫婦の愛の聖域であるために禁じられていますが、いずれにしても社会的な疎外などというものは存在しません。さらにムスリム女性よりも出入りの自由な女性などどこの国にもいません。
またハレムが常に不可侵であったわけではありません。セリム[*1世]の大宰相イブラヒム[*イブラヒム・パシャ。スレイマンの大宰相でもあった]は主人のハレムに自由に入ることを許され、彼が望むときにスルタンの母后や后たちと談話していたのです。
ムラービト朝[*西サハラのベルベル王朝。1056‐1147]の女性たちも、有名なガザーリー[*1058‐1111]の教え子だったムハンマド・ビン・アブド・アッラーフ以前は顔を覆うことなく往来していました。彼はムワッヒド朝[*ムラービト朝の後継王朝。1130‐1269]の君主となって、コーランの規律を再確立したのです。トルコ人の間では、女性は壮麗者スレイマンの治世下において大幅な解放を享受しました。以前は男たちの不道徳な振る舞いから彼女たちの不可侵を保障し、彼女たちを保護するためにさまざまな制限が彼女たちに課されていたのです。
しかしながら、今日ではトルコの女性は西洋の女性と同じくらい、あるいはそれ以上の自由を享受しています。もちろん、キリスト教徒女性は悪事を成す点ではよりいっそうの自由を享受していますが。キリスト教徒女性には舞踏会ではほとんど半裸の自分を見せる自由があり、劇場では活人画(*生きた人が扮装し静止した姿勢で舞台上などで名画や歴史的場面を再現すること)を表現する自由があります。キリスト教徒女性には愛の顧客をつくる自由もあります;というのも、われわれにとって愛は永久不変の武器であり、戦時の臨時予算のようなものですから。トルコ文明はそのような展開はせず、他方でムスリム女性は善きことをなすための自由を十分に手に入れていたのです。彼女たちも満たされない欲求というものを持ってい� ��のかもしれませんが、それでもなおキリスト教徒女性をうらやむ理由はほとんどないのです。
われわれの法では男性のために女性が犠牲になっています。われわれにとって、既婚女性はより重要でないものとして取り残されるのです。彼女には自分の財産を管理する力もなければ、それを処分する権利もありません。人道に反した夫はそれらすべてを、椅子やテーブルなどのように妻に残しておかなければならないものを除いて、家具までも売り払うことができます。椅子やテーブルなどは恐らく彼女が自分の仕事の成果をもってその代価を支払うのかもしれません。
西洋の女性は子供の教育を監督する権利も、子供たちの結婚に反対する権利も持っていません。なのに西洋の女性は自分の生んだ子や孫以外の孤児を[引き取って、その]保護者となることができません。情欲の結果たる恥ずべき失敗作(*非嫡出児)に、父親は知らぬ存ぜぬなので、女性は1人でその重荷を背負うのです。不運な女性は、その罰として法律とキリスト教の慣習によって非難され、孤立と惨めさの結末のすべてを背負ったパーリアー(*インドのカースト制度における最下層民)となります。
反対に、イスラム教は女性への気遣いに満ちています。合法的な一夫多妻はともかくとして、イスラムの女性は他の国々のように彼女の性別によって生じるさまざまな不便にさらされることはありません。トルコ人の間で広く行われている「絶対的な平等」という原理原則のおかげで、もっとも卑しい奴隷でももっとも高位の名士と結婚することができます;さらに男性のために子供を産んだ女性はみな、子供への父性という利益を主張する権利を持っています。また、一夫多妻は強制的なものではありません。もしムスリム男性に一夫一婦制の有利さが十分に明らかであったのなら、ムスリム男性はまず自発的にただ1人だけの妻を持ったことでしょう。しかしこの慣習はいまだにしばしば起こっており、さらにより普及までしそうなので す。
聖書は嫉妬について何を言っています
しばしば、キリスト教は女性の地位を高めたのだ、と断言されます。さらに、キリスト教以外においては、女性とは出産と快楽の道具でしかなく、いかなる社会的影響力もないのだとも。しかしそのようなことはまったくありません。キリスト教が女性の地位を改良した文明であったのはその初期の時代であり、[その時代]キリスト教女性は奴隷よりは少しはましなのでした。われわれの近代的なルクレティア(*ローマ王ルキウス・タルクィニウス・スペルブスの息子に陵辱されたことを恥じて自殺した伝説上の貞婦)の理念とは何でしょう?中世、そしてルイ14世やチャールズ2世の栄光の時代には、不名誉を逃れるために死を望む女性がいかにまれであったかを見て取ることができます。われわれの時代については述べません。セクス� �ゥスの蛮行が罰せられない限り、タルクィニウス王の王冠がはずされることはないのです!
騎士制度の原因となったキリスト教徒とムスリムの接触以前には、女性の地位は向上しませんでした。騎士制度はスペインに起源を持ち、そこからカール大帝がヨーロッパの中心部にそれを持ち込みました。馬上試合トーナメントや馬上槍試合ジャウスト、吟遊詩人トルバドール(*11‐13世紀に南仏で活動した叙情詩人たち)、武者修業者、カスティーリャ人の誇り、淑女への礼儀、セレナーデ(*恋人の窓の下で男が歌う曲)、一騎打ち、勝利後の寛大さ、信仰にかけての誓言、もてなしを大切にすること — これらすべてはスペインのムスリムから借りてきたものなのです。今日でさえ、スペイン人とアラブ人の両者の特徴には大きな類似が見られるのです。アラブ人はいまだにグラナダの戦士たちの名を高めたあの気高い気質を持っています。そして、きわめて優れているのがアラブ人の女性への敬意です。不倶戴天の敵がアラブ人の妻の一人のローブに手をかけるのに成功した瞬間から、その男はアラブ人のテントの下で安全と保護を見出すほどです。太古の昔、アラブ人が偶像崇拝をしていたころのアラブ人女性は自分の財産をすべて管理し、また処分することができ、そして自分たちの本来の天分を望む方向へ向かわせることができたのでした。
トルコ人女性に課された受動的役割の責任は、モハメッドが課したものではありません。というのも、彼はその布教 [propogation] 活動において女性をその力強き補助者として用いているからです。
アイシャ、ファティマ、ハディーシャという名はイスラム教に密接に結び付けられた名前です。ファティマはモハメッドの娘であり、アリーの妻となりました。彼女の名はファーティマ朝に採られています。モハメッドはこれ以上はないというほどの敬意を女性に尽くしたのです。彼は「天国は母の足下にある」と言いました。実際、イスラム教以外には母親をそれ以上の敬意で扱ったものはないのです。家族の運命や子供たちの未来にこれ以上の影響を与えたものもまたありません;ですからトルコのスルタンの歴史を書く際には、同時に母后の歴史を書かずにはいられないのです。
どのムスリムの家庭においても最も敬意と献身の的となっているのは母親です。トルコ人は母親を失う以上に何かを失うことで苦しむことはありません。もし妻が死んでも、「別のを見つけるさ」と言うことでしょう。もし子供が処刑されても、「他の子が生まれるかもしれないさ。だが俺は一度きり、それも母一人からしか生まれなえないのだ。」と言うことでしょう。
ボアブディル(*グラナダの最後の王、ムハンマド11世。在位1482‐92。d.1527)と呼ばれたアブー・アブダッラーの母ゾラーヤ [Zoraya] の強力な影響力はよく知られています。彼は母の夫であるグラナダのミュレイ・ハサンの意向に悩まされたものでした。
ヴェネツィアの貴族バッフォー家の娘サフィエは、同時期にカトリーヌ・ド・メディシスがフランスで、あるいはエリザベスがイギリスでそうであったように、トルコに君臨しました。彼女はムラト3世、メフメト3世の両治世にわたって君臨しました。ちょうどロクセラーナがスレイマン2世(*バヤズィト1世の子、スレイマン・チェレビーを1世と数えていると思われる)およびその息子バヤズィト[王子]の治世のあいだ君臨したように。
カトリーヌ・ド・メディシスはムラトの妻サフィエと直接文通を交わしました。フェリペ2世に対するオスマン艦隊の協力を得んがためです。
イブラヒムの母后キョセムは7人のスルタンの治世を生き続け、そのうち3人の治世のあいだ君臨しました。彼女の深遠な政治的思慮は彼女に「オスマンの女帝」、「兵士たちの母」という名声をもたらしました。
ある偉大なフランス人作家は、「慣習と宗教規範は女性をむなしく隷属や神秘へと追いやる。かつて人の心に生まれた本性、美、愛は[再び]そこに帰ってくる[だろう]。」と書いたものです。
私はすでにムスリムの法が女性に有利であると言いました。たとえば、9歳で成年に達し結婚した女性は、自分の財産を管理し、1/3の遺産を処分することができるのです。彼女は正当な理由があれば夫の家を離れることができます。もし夫に十分な財産がなかったら、妻は自分と家族のために食料を準備し、家庭の義務を果たす責任があります。しかし客のためには、それが商売相手だったとしても、そこまでする必要はありません。
逆に、夫には妻の要求をかなえてやる義務があります。夫が妻を侮辱したり、不当に扱うことは禁じられています。論争においては、夫が付帯事実の証言をなしうることができなければ、彼が信じられることはありません。[夫が証言に]失敗すれば、夫が妻に生活手段を講じなければならないということはありませんが、妻は夫の名を借りて権限を与えられます。妻の権利は特別に夫に属している売品にまで及ぶのです。
妻は実際には離婚を主導することはできませんが、あらゆる方法を持っていて、もし妻が望むなら離婚を避けられないようにすることができます。アラブの遊牧民においては、女性が「今の夫より優れた人と再婚するつもりだ」と宣言するだけで十分です。
姦通した女性を告発するには4人の証人が必要です。しかしムスリム社会の原則は女性の名誉で構成されており、その名誉は世論と同じくらい厳格な法の罰則によって守られるのが普通です。姦通への罰は死刑です。しかしこの破滅は不義密通に対しても当てはまります。これは処刑の実行が、法というより世間の嫌悪を表しているためです。オスマン帝国の年代記には、憤慨した大衆ないし暴徒によって科された姦通への罰が一例だけ記録されています。暴徒は姦婦に投げるために道端に小石を集めたのです。
しかしもしドルーズ派の女性が不義密通で有罪になっても(めったにあることではありませんが)、その女性はやはり自分の人生にペナルティーを支払わされます。夫は妻を実家に送り返し、彼女のカンジャル(*短く曲がった短剣)や短剣も送り返されます。それは彼が結婚のときに受け取ったものです。(2)
短剣の返送は彼女の不名誉を通告するものです。これは夫ばかりでなく妻の親類にとってもそうであり、彼女の血よってのみ洗い落とされうるものなのです。[妻の]父親や兄弟たちは夫の家庭における妻への厳粛な裁判に立ち会います。そしてもし証拠が十分なら、彼女の死が宣告されます。父の愛はまったく役に立たず、母の叫び声が打つ手を留まらせることもなく、姉妹の涙も罰を軽くすることはありません。処刑執行人は一般に[妻の家の]長兄であり、彼は妻の手首を切り落とします。そしてタントゥール [tantoor] は頭髪ごと血に浸され、罰が科されたことの証のために夫の下へと送られます。(3)
姦通は極めてまれであり、トルコには離婚法廷はありません。しかしトルコでは合法的な結婚があまり一般的でないのも事実です。もしこの国がペンザンス伯の従者を非常に喜ばせるものであると紹介されるのなら、そしてペンザンス伯の宮廷でのスキャンダルの最終目的とされるのなら、それはキリスト教世界や文明にとってかなり恥ずべきことと言えます。
この結婚はカビン [kabin] と呼ばれます。これは男性がカーディーないし治安判事の前で自己紹介し、彼の指名した女性を一定期間維持するという義務を自ら背負い、彼は女性の同意を得る、ということで構成されています。彼女の同意は父か最も近い親類、および2人の証人によって証明されなければなりません。男性は父親として彼女の産む子供たちの世話をする義務を負い、こうした結婚の結果である子供たちは他と同様の権利を享受し、また父親を世話する[義務]も残されます。
しかし不変なる結婚という契約の理念は、契約それ自体よりも耐えるのが困難なものとなります。というのも、契約の当事者は一般に期間の満期に自分たちの自由のために契約を新しいものにしてしまうからです。一生ではないにしても、一時的ではない[結婚契約に違反するような行為を可能にしようとする]その意識は疑いなく彼らに自発的にそうさせる傾向をもつのです。
この制度の根本にある人間の本性に原理を求めるのは滑稽なことかもしれません。彼らは自分たちの本性における本質的な要素を抑制しようとすることに根ざす全世界に共通する[結婚に反するような行為に対する]嫌悪感を自ら解決するかのようにも思われます。無意識下における心の情感を抑えつけることが望まれるもの[*結婚]に対してはとくに。
トルコ人は頑固だと一般的には思われていますが、宗教的寛容さがオスマン帝国の首都以上に大きな程度存在する都市はありません。キリスト教徒女性との結婚でさえそれほど珍しいことではないのです。最近の例としては、私はハイダル・エフェンディの結婚を知っています。彼は近頃までトルコ政府からウィーンに大使として派遣されていた人で、昨年ボスポラスに戻り、カイゼルの宮廷から1人のキリスト教徒の妻を伴ってきました。
現在の慣習の状態では[このような結婚には]疑いなく克服されるべき多くの偏見があります。しかし混合結婚に対する法的規制はないのです。法律によって唯一要求されるのは、女性はイスラム教を奉じるよう求められなければならない、ということです。しかし、彼女が3度自らの宗教への信仰を維持することを望むと宣言するや、ほとんど干渉はありません。
ムスリムの法は原則的に女性の向上や社会の発展に障害となるようなことを提供したりはしません。オリエントにおいては、自然は急速な完成を可能にするものとして女性を授けたのです。私はついに教育がハレムから無知と迷信のすべての根底を撲滅するその瞬間から、偉大な結末が訪れるだろうことを期待しています。それと同時に、私はキリスト教徒女性がムスリム女性の社会的地位をうらやむだろうことを確信しています。
1.
Ch. Mismer 著、『コンスタンティノープルの夜』
2.
ドルーズ教徒の女性は一般にたいそう美しく、その顔色のよさ、濃い青の瞳、長い濡れ羽色のふさふさした髪、真珠のような輝きの歯は特筆すべきものです。男は一般に16-18歳で結婚し、1人の妻だけを娶ります。花嫁はたいてい13-14歳です。
結婚式の3日前、花婿は数人の男友達と共に彼の婚約者の家に行き、正式な作法に則り彼女の父親の手から彼女を要求します。婚約者の父も同様に正式な作法に則って彼に承諾を与えます。夫が妻につむ持参金はこのときに用意されます。花嫁はぴったりとベールをかぶり、母によって前に引き出されます。花嫁の母は嫁の純粋さと名誉を請合います。そしてこのとき花嫁は未来の夫にカンジャルか短剣を贈るのです。これは彼が彼女に与えると期待される保護を示すと同時に、罰をも暗示しています。彼女の母の宣告が嘘であったり、彼女がそののち結婚の誓いに不実であったりしたときの罰です。
3.
タントゥールとは、既婚女性が頭につける銀製の装飾品のこと。
この文章は1872年に出版された「Modern Turkey」からの抜粋です。J. L. Farleyはブリストル領事・外交官。Sublime Porteとは直訳すると「荘厳門」で、当時のオスマン帝国政庁の仏語での呼称です。
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