1800年の大統領選挙は「1800年の革命」と呼ばれることが多い。ジェファソンはそれを、「1776年の革命が政府の形体上の革命だったように、それは政府の原理上、真の革命でした。それは剣によって達成されたのではなく、理性的かつ平和的な改革の手段、すなわち人民の投票によって達成されました」と説明する。ジェファソンにとって「1800年の革命」は「第2のアメリカ革命」であった。さらにアメリカという広大な領域に共和制を樹立するという「実験」は、ジェファソンにとって「共和政ローマ時代以来、全く例を見ない」ものでもあった。ジェファソンの理念はアメリカだけにとどまらず、「我々自身のためだ けに行動するのではなく、全人類のために行動している」と述べているように全人類をも対象にしている。それは当時のアメリカの使命感を如実に示している。
従来、ジェファソンは弱体な行政府を望み、「黙示的権限」の合憲性に対して疑義を唱えていた。ジェファソンの考えによると、各州はその領域内で大幅な権限を保持し、連邦政府は専ら外交と通商問題を担うようにするべきであった。そうすれば連邦政府を「非常に簡素な組織」にとどめることができ、僅かな職員と費用で済ませることができると大統領になる少し前にジェファソンは語っている。
それにも拘らず、「ハミルトンの金融制度を我々は取り除くことはできない」として、ジェファソンは自らが設立に反対していた第1合衆国銀行の特許を取り消してい� �い。とはいえ、州立銀行の設立を後援することで合衆国銀行の相対的な地位を低下させている。つまり、ジェファソンは、州債と国債を一本化し、忠実に返済することで国の信用を高め、通商を奨励するという、これまでの基本政策を継承したのである。また熱烈な民主共和派の中には、急進的な憲法修正を通じて「1800年の革命」を制度化すべきだと唱える者が多かったが、ジェファソンはその圧力に屈しなかった。そのため「革命」と言えるほどの政策上の大きな変化はなかったと多くの歴史家は指摘している。しかし、連邦派政権から民主共和派政権へ血を流さずして政権交代が実現したという点では高く評価されている。
財政の健全化
公債償還計画
ジェファソン大統領は、財務省の改革、減税、公債償還、政府の効率化という4つの方針の実現に努めた。まず関税収入で公債償還や歳費が十分まかなえると考えて、すべての内国税の即時廃止を行った。その結果、内国税の徴収官が不要になり、財務省の規模拡大が抑えられた。
財務長官アルバート・ギャラティンは、歳入の約4分の3を利子と元本の支払いにあてて1817年までにすべての公債を償還する計画を立案した。ジェファソン大統領はこの計画を推進した。その結果、8600万ドルの公債を4600万ドルまで減少させることに成功した。
また「合衆国の会計は普通の農民の会計のように単純であることが望ましく、またそうあるべきであって、普通の農民も理解できるものでなければならない」という理念 に従ってジェファソンは、ギャラティンに会計方式を簡潔化するように求めた。あらゆる人々が会計を理解することにより、「不正使用を調べることができ、ひいては不正使用を抑えることができる」とジェファソンは述べている。またジェファソンは、政府の経済への介入を特定の利益集団を利する不正な手段であると見なしていた。
民兵への信頼
またジェファソン大統領は陸軍、海軍、外交団の規模の縮小を提言している。陸軍は1796年のレベル、つまり1砲兵連隊と2歩兵連隊の規模に戻された。さらに海軍に関しては、後のトリポリ戦争時は歳出が増大したとはいえ、1802年の歳出は1801年に比べて約半分程度にまで削減されている。
常備軍が削減されても民兵という組織があればアメリカの安全は保たれるとジェファソンは信じていた。第1次一般教書でジェファソンは、常備軍の数がたとえ不十分であっても「侵略してきた敵の数に応じて」民兵を招集し、「最初の攻撃に対抗するだけではなく、もし侵略が長引く恐れがあれば、正規軍が彼らに代わって戦いに従事するまで防衛を維持できればよい」と論じている。ジェファソンにとって「よく組織化さ� �、武装化された民兵は最善の防衛手段」であった。
どのようにバングは世界の芸術を変更したり、影響を与えた
新しい慣例
接見会の廃止
ジェファソン大統領は、貴族的であるとしてワシントンが導入した大統領の「接見会」を廃止した。さらに誕生日を祝って開催される舞踏会、感謝祭のような記念日を指定することなどを取り止めている。しかし、一方で議会の会期中は連日、午後3時半から8時まで晩餐会が行われた。晩餐会には8人の議員と1人の閣僚が交替で招かれた。そうした晩餐会では席次を平等にするために円卓が使われ、着席の順序も従来とは異なり自由であった。招待状は大統領名義ではなく単に「Th. ジェファソン」名義で発行された。こうした非公式な晩餐会は大統領が議員達に政策を伝える有効な手段として作用した。
儀礼は簡略化されたものの、食事の内容は凝っていた。8名から10名の給仕によってフランス料理やイタリア料理が供せられた。そうした料理の中にはパンケーキやマカロニなど当時のアメリカ人にとってはまだ珍しい品目も含まれていた。こうした晩餐会の費用は莫大な額にのぼり、ジェファソンは大統領の年俸2万5000ドルのほとんどを使い果たしている。
また1801年7月4日にジェファソン大統領はホワイト・ハウスで祝賀会を行い、1000人以上と握手を交わしている。それまでの慣習では、大統領は堅苦しくお辞儀をするのみであったので、それは全く新しい慣例であった。こうした祝賀会は年に2回、元旦� �独立記念日に行われ、誰もが参加することができた。こうした様子を前任者のアダムズは、「私は接見会を週に1回行ったが、ジェファソンは丸8年間が接見会だった」と評している。
メリー問題
1803年11月28日、駐米イギリス公使アンソニー・メリーは国務長官ジェームズ・マディソンに伴われて大統領公邸に向かった。大統領に謁見するためである。謁見を控えてメリーは外交官の正装を着用していた。奇妙なことにマディソンとメリーが官邸に到着した時、謁見の間にジェファソン大統領の姿はなかった。そのためマディソンはメリーを残してジェファソンを探しに行った。メリーはマディソンについていこうとしたが、事情がよく分からないので諦めた。
狭い廊下をメリーが歩いていると、突然、書斎からジェファソン大統領が出てきた。驚いたメリーは、咄嗟のことにも拘らず、貴賓に対して背中を向けないという外交儀礼を守りながら謁見の間まで戻った。メリーは狼狽しながらもジェファソンを迎 え、予め準備しておいた献辞を述べた。さらにメリーを驚かせたのは大統領の服装であった。メリーはその様子を、「[ジェファソンが]ただ平服であっただけではなく、かかとの擦り減ったスリッパを履いて立っていた」と書き記している。献辞が終わった後、両者は会話を交わしたが、その最中、ジェファソン大統領はそのかかとの擦り減ったスリッパを足で投げ上げて爪先で受け止めてみせたという。
謁見終了後、マディソンはメリーに、大統領だけではなく各閣僚も訪問するように伝えた。メリーは前例を盾にしてそれを断った。するとマディソンは、現政権は前政権の古い外交儀礼を守る必要はないと言った。怒りを抑えながらメリーはマディソンの要請に従った。
3日後、今度は夫婦揃ってメリーは官邸で開かれる晩餐 会に赴いた。その会場に入ってまずメリーが驚いたことに、交戦中であるフランスの外交官が招かれていた。それだけではなく、ジェファソン大統領が定めた席次はメリーを憤慨させた。本来であれば、メリー夫人がジェファソン大統領の右側に、マディソン夫人が左側に、そしてメリー自身はその隣が定席であった。しかし、ジェファソンが席次を全く守らなかったために、メリーは自分の席を探さなければならなかった。ようやく納得できる席をメリーが占めようとした時、1人の議員が割って入り、その席を要求した。それでもジェファソン大統領は何もしようとしなかったのでメリーはますます困惑し、晩餐会が終わるとすぐに馬車を呼んで立ち去った。
こうした新しい形の儀礼をジェファソン大統領は「ざっくばらん」と呼� ��だ。それは、平等主義に基づいた儀礼で、従来の優先権を認めない方式であった。しかし、メリーへの仕打ちは多分にイギリスに対する反感が込められていることは指摘すべきである。一連の出来事はメリー問題と呼ばれるが、幸い深刻な外交問題に発展せずに終わった。
一般教書を文書で送達
憲法第2条第3節は、「大統領は、随時連邦の状況につき情報を連邦議会に与え、またみずから必要にして良策なりと考える施策について議会に対し審議を勧告する」ことを規定している。しかし、教書を伝える具体的な方法については何も指定されていない。そのためジェファソン大統領は教書を口頭ではなく文書で伝える形式を採用した。大統領が議会で一般教書演説を行う様子は、国王が議会で開会を宣言する様子を想起させるからである。
1801年12月8日の一般教書が文書で伝えられた最初の一般教書となった。文書で伝える形式が採用された理由としては、ジェファソンは会話の妙手ではあったが、大勢の前に出ると不明瞭に口ごもる癖があったことが考えられる。
教書を文書で送付する慣習 はウィルソン大統領の時代まで100年以上も継続した。1913年12月2日、ウィルソンは第1次一般教書を口頭で述べた。それはジョン・アダムズが1800年11月22日に第4次一般教書を口頭で述べて以来、久しく途絶えていた。
ホワイト・ハウスの改築
ジェファソン大統領が就任した頃のワシントンはまだ閑散としていた。土地はまるで湿地のようで、家畜が舗装されていない街路を歩き回っていたという。建物の数も僅かに40軒ほどであった。
ジェファソン大統領は大統領官邸を「2人の皇帝、1人の法王、そしてダライ・ラマを入れるのに十分なほど大きなもの」にしようと努めた。庭に芝生を敷き、植樹を行なって整備した。さらに建築家ベンジャミン・ラトローブの� �督の下、正面にポーチが増築され、1階の間取りが変更された。しかし、こうしたジェファソン大統領による改修は1812年戦争の戦火で灰燼と化している。
地下鉄システムは、何としても知られている
トリポリ戦争
1801年5月14日、トリポリのパシャが貢納金の額を不服としてアメリカに宣戦布告した。まだ宣戦布告の報せは届いていなかったものの、報告でトリポリの不穏な動きを知ったジェファソン大統領は5月20日、4隻からなる艦隊を地中海に派遣した。派遣の理由をジェファソン大統領は、第1次一般教書の中で「私は小規模なフリゲート艦隊を、平和を保つことを我々は真摯に望んでいることをトリポリに確信させるために、そして攻撃の脅威から我々の通商を守るという命令の下、地中海に派遣した」と説明している。
1801年8月1日、スクーナー船エンタープライズ� ��Eがトリポリの船舶と交戦した。これがトリポリ戦争で最初の衝突となった。3時間に及ぶ戦闘の結果、エンタープライズ号は勝利をおさめ、敵船を武装解除のうえ解放した。武装解除のうえ敵船を解放した理由についてジェファソン大統領は、「議会の認可なく防衛の線を踏み越えることは憲法によって認められていない」からであると釈明している。こうしたジェファソン大統領の判断をロバート・ターナーは「大統領の戦争権限について、かつてアメリカ大統領が述べた中でも最も厳密な解釈の1つである」と評価している。
その後、徐々に増援が行われ、アメリカはトリポリの封鎖を開始した。しかし、モロッコとの衝突の恐れがあるので1803年6月26日、トリポリの封鎖はいったん解除された。モロッコと平和条約を締結した後� �封鎖が再開された。ナポリからの支援を得た司令官エドワード・プレブルは、1804年8月から9月の間に5度にわたって激しい攻撃をトリポリ市街に加えた。こうした度重なる攻撃にも拘らず、トリポリのパシャを講和の席に着かせることはできなかった。
1805年4月27日、戦況が一変する事態が起きた。位を奪われて亡命していたパシャの兄がアメリカの支援で軍を率いてトリポリに至り、デルナDernaの町を占拠したのである。ようやくパシャは講和交渉に応じ、6月3日、講和予備条約が締結された。それは、アメリカ側が捕虜の身代金として60万ドルを支払い、デルナを返還する一方で、トリポリ側は貢納金を要求する権利を放棄するという内容であった。
海軍再編
� �ジェファソン大統領はトリポリ戦争における「ジブラルタル近海における小型砲艦の有効性」に着目し、1807年2月10日に「小型砲艦に関する特別教書」を議会に送付している。「あらゆる近代的な海軍国で防衛に使われている」小型砲艦は、建造費用や維持費が安く済むことをジェファソンは小型砲艦導入の利点として挙げている。そして、小型砲艦を配備する計画を推進した。
既に就役中、もしくは建造中の艦船は73隻であり、127隻の新規建造が必要とされた。それに要する費用は50万ドルから60万ドルである。建造期間は、費用や資材の準備を考慮に入れて2年とするべきであるとジェファソンは提言している。
ルイジアナ購入
購入の経緯
仏領ルイジアナ購入実現の背景として、アメリカを取り巻く当時の国際情勢が関連している。1800年、ニュー・フランス建設を目論んだフランスはルイジアナを秘密裡にスペインから取り戻した。さらに1802年10月16日、スペインの監督官が、ニュー・オーリンズでの荷物積み替えを突如停止したため、アメリカの西部は生産品の積み出し港を失う結果となった。西部の住民の怒りは激しく、フランスとの戦争を求める声さえあった。フランスの行いに抗議する文書が出回り、西部の住民の怒りを宥めるためにはニュー・オーリンズと両フロリダをフランスから購入する以外に根本的な解決策はないと思われた。
ジェファソン大統領は、早くからフランスがルイジアナの支配権を確立することで生じる危険性を示唆し� �いた。それはジェファソンの外交意識を根本から変える問題であった。従来、フランスとアメリカは利害衝突が少なく、「本当の友」であり、ジェファソンは「フランスの成長をアメリカ自身の成長である」かのように歓迎してきた。しかし、フランスがニュー・オーリンズを扼することはアメリカを「公然と無視」することに等しかった。それはアメリカの利益の侵害である。したがって、たとえフランスとの友好関係を損なう恐れがあっても、ニュー・オーリンズと両フロリダの購入を提案すべきだとジェファソンは考えた。なぜなら、もし利害衝突の種となりかねない両地をアメリカが購入してしまえば、それ以降は「すべての諸国と恒久的な平和と友好」が望めたからである。
1803年1月11日、問題を根本的に解決するために、 ジェファソン大統領はモンローをニュー・オーリンズと西フロリダの購入交渉を行う特使として任命した。モンローは駐仏アメリカ大使ロバート・リヴィングストンとともにフランス側と交渉にあたった。
その頃、フランス側は仏領サント・ドミンゴで勃発した奴隷制反対闘争に悩まされていた。それはフランスのルイジアナ占有を遅らせ、その結果、フランスはお金に困るだろうとジェファソンは早くから予想していた。ジェファソンの予想通り、ナポレオンはニュー・フランス建設を断念し、アメリカにルイジアナ全域の売却を提案した。しかし、フランスとイギリスの戦争が実際に再開されるまでナポレオンは譲歩しないだろうとジェファソンは考えていたので、この提案が早々に行われたことは予想外の出来事であった。
1803年5月2日(4月30日付)、モンローとリヴィングストンはパリでルイジアナ割譲条約を締結した。仏領ルイジアナは、現在のアーカンソー、アイオワ、カンザス、ルイジアナ、ミネソタ、ミズーリ、モンタナ、ネブラスカ、オクラホマ、ワイオミング、サウス・ダコタ、ノース・ダコタにまたがる広大な地域である。アメリカはその広大な地域を1500万ドルで入手した。しばしば史上最大の不動産取引と言われるルイジアナ購入であるが、価格についても破格であり、1エーカーあたりの土地価格は僅か約3セントであった。両者はもともとニュー・オーリンズと西フロリダの購入のために派遣されたので、ルイジアナ全域の購入は与えられた指示から逸脱することであった。つまり、ジェファソン大統領はルイジアナ購入を事前に全く知らさ� �ずに追認したことになる。
ルイジアナ購入の経緯については、1803年10月17日の第3次年次教書でジェファソン自身が次のように詳細を述べている。
「西部交易の要所が外国の勢力下に置かれる中で、我々の平和が絶え間なくさらされている危険に我々は気付いていませんでした。我々の領土内に源を発し隣接地域を流れる河川の航行に関して困難が生じました。それ故、公正な条件でニュー・オーリンズ、および我々の平穏にとって利益となる区域の中で、できる限りの領域の主権を得ようという提案は正しいように思われます。合衆国大統領の要求よって計上された200万ドルの暫定予算は、割譲提案に対する議会の承認を伝えるものとして考えられますし、対価の一部となるでしょう」
さらにジェファソン大統領はルイ� �アナ購入で生じる利点を次のように論じている。
「ミシシッピー水系の所有権と主権があれば、西部諸州の農産物のための独自の水路を確保できるでしょう。そして、全流路を規制されることなく航行できること、他国との衝突とそれが原因でもたらされる我々の平和に対する危険から免れること、そして、肥沃な土地、およびその気候と広がりは、しかるべき時に国庫に大いなる恵みを約束し、我々の子孫のための十分な蓄えと自由と平等な法の祝福を受けるにふさわしい広大な原野を約束するでしょう」
何が9月11日の日に何が起こった
そしてジェファソン大統領は、「もしルイジアナ割譲が合憲的に確定し成立したならば、総計約1300万ドルが我が国の公債に加わりますが、その大半は以後15年で支払うことができます」と償還計画についても言及している。
一般教書に続いて1803年11月14日、ジェファソン大統領は「ルイジアナに関する報告」を議会に提出している。それはジェファソン大統領が各地の人々に質問を送り、その回答をまとめたものである。
憲法上の疑義
連邦派は、ルイジアナ購入を憲法からの逸脱と批判した。連邦政府が外国の領土を併合する権限を持っているのか。また併合された地域を連邦政府の一存で将来、連邦に加入するように約束することができるのか。さらに憲法に明記されていない権限を連邦政府は持っているのかという憲法上の疑義があった。
またジェファソン自身、連邦政府には憲法に明文化された範囲内の権限しかなく、「解釈によって成文憲法を白紙委任状にしてはならない」と長らく主張してきた。ルイジアナ購入は、憲法に規定された範囲内の権限を越える判断であり、それを中央政府で専権的に行うことは、すなわち強力な中央政府の存在を認めたに等しかった。またルイジアナ購入は歳出の増加をもたらし、第1次就任演説で約束� ��た「労働者の口から稼いだパンを奪い取らない政府」の実現から遠ざかる危険性をはらんでいた。ジェファソンは、このような論理的矛盾を解消する必要があった。
そのためジェファソン大統領は憲法修正を考えていた。それは「新しい権限を国民に求めること」で、従来通り黙示的権限は否定しながらも、ルイジアナ購入の合憲性を遡及的に確かなものにするという方針に基づいている。憲法を恣意的に「解釈」して権限の拡大を求めるよりも、憲法修正によって「権限の拡大を国民に求める」道をジェファソン大統領は選ぼうとしたのである。ジェファソンにとって、憲法を恣意的に「解釈」することは、権限の無制限な拡大を招く危険性があったからである。
ジェファソン大統領の修正案には、ネイティヴ・アメリカン� ��ミシシッピーの向こう側に移住させ、新たに加わった領域のうち北緯33度以北は白人の移住を禁止するという項目が盛り込まれていた。結局、この修正案は提出されることはなかった。ジェファソンの友人達は、もしジェファソン自ら条約に関する憲法上の疑義を明らかにすれば、上院は条約承認を拒否するかもしれないと危惧していたからである。「我々の友人達が[憲法修正について]違うように考えているようであれば、我が国の良識が悪い効果を生み出し得る解釈を是正してくれると信じて、私は[友人達の考えを]黙認するのに吝かではありません」とジェファソンは述べている。
ジェファソン大統領は、1803年8月12日付の手紙の中で、ルイジアナ購入が憲法に規定された連邦政府の権限を越える行為であったと認めながらも、� �見人が幼い被後見人の将来を思って越権行為であるのにも拘らず土地を購入する例と同じく、人民の利益を増進させるという善良で誠実な動機に基づいているので問題はないと弁明している。
フロリダ問題
ルイジアナ獲得は利害衝突の種をなくすように思われたが、スペインとの間に新たな問題を引き起こした。アメリカはパーディド川(現フロリダ州とアラバマ州の州境)まで「古くからルイジアナの領域」に含まれると主張した。またアメリカは、スペインが両フロリダもフランスに割譲していたと思っていた。
その一方、スペインは1800年にルイジアナをフランスに割譲した際に、その部分は含まれていなかったと主張した。ジェファソン大統領は、もしナポレオンがスペインを完全に屈服させることができれば、将来、必ずフロリダをアメリカの中立を購うために差し出すだろうと考えていた。スペインは、ウェスト・フロリダに対するアメリカの要求とイースト・フロリダ購入の申し出を拒絶した。また1805年1 2月に議会にフロリダ購入のために200万ドルの予算を求めている。しかし、この係争問題はジェファソン政権時代には解決せず、最終的な決定は後の時代に持ち越された。
ルイスとクラークの探検隊
1803年1月18日、ジェファソン大統領は議会にルイスとクラークの探検隊に関する特別教書を送付している。メリウェザー・ルイスはジェファソンの私設秘書であり、ウィリアム・クラークをパートナーに選んだ。ルイスとクラークの探検隊の主目的はミズーリ川の流域を探査し、交易ルートとして最適な太平洋への水路を見つけることであった。またネイティヴ・アメリカンの居住地域や人口、諸部族の関係、言語、風習、生業などを記録するようにルイスは命じられた。それは主にネイティヴ・アメリカンとどのような交易が行えるかを調べるためであった。他にも土壌、動植物、昆虫、鉱産資源、気候にいたるまでありとあらゆる事象 を報告するように綿密な指示をジェファソン大統領はルイスに与えている。
奴隷制関連政策
1801年、ジェファソン大統領は当時、ヴァージニア州知事であったモンローから奴隷制問題について相談を受けている。1800年、ヴァージニア州議会は罪を犯した奴隷を送り込む用地を州外に購入することを決議した。そして、モンローにその実現を大統領に相談するように求めたからである。
まずジェファソン大統領は国外で用地を準備するように助言した。もし合衆国の領域内に用地を設ければ、将来、その地が州として連邦に組み入れる際に問題が生じると考えたからである。さらに北アメリカ大陸内のイギリス領やスペイン領に奴隷受け入れを求めることは難 しいとし、西インド諸島、特にサント・ドミンゴが適当であるとした。サント・ドミンゴには既に黒人が多く居住し、また気候も問題なく、輸送費もアフリカに比べて安く済むというのが主な理由である。アフリカはあくまで「他のすべての手段が失敗した場合の最後の手段」であった。もしヴァージニア議会が詳細に計画を決定するのであれば、然るべき外国当局と契約を交わすことをジェファソンは約束した。
ジェファソンの回答を得てヴァージニア議会は1802年1月16日、奴隷移住に関してさらなる決議を採択した。それは解放奴隷や混血者、将来、解放されるであろう奴隷をアフリカに移住させることを示唆している。
こうした決議を受けてジェファソンは、移住候補地としてシエラ・レオネをモンローに勧めた。シエラ� �レオネ植民地はイギリスの植民会社によって運営され、独立戦争時に逃げた数多くの奴隷も入植していた。1802年、ジェファソンは植民会社に奴隷受け入れを求めた。しかし、植民会社の回答は、入植者を今後、受け入れる予定はないという内容であった。植民事業がうまくいかず、近々、事業を放棄しイギリス政府の管理に委ねる予定だったからである。さらに南米に植民地を持つポルトガルとも交渉したが、同じく実を結ばなかった。
こうした経緯を通じてジェファソン大統領は、「合衆国がアフリカ沿岸にそうした植民地を建設することに自ら取り組むことが何よりもまして望ましい」という結論に至っている。つまり、それはアフリカ沿岸の植民地に黒人を移住させることが「黒人自身にとっても白人にとっても最も有益であ る」という考え方であった。アメリカから有用な技術を持った黒人がアフリカ大陸に帰還し「文明化の種」となれば、結果的に黒人がアメリカで味わった苦難は「恩恵」となる。また、こうした「人道的な動機」に加えて、通商的な利益も見込めるので、植民に要した費用は十分に回収できるとジェファソンは論じた。しかし、「国民の心情はまだ用意ができてない」と考えていたジェファソンは、後にアメリカ植民協会の設立にマディソンやモンローとともに名を連ねるように依頼されたとはいえ、本格的な政策として植民事業を実施することはなかった。
アーロン・バーの陰謀
陰謀の推移
副大統領在任中からバーは陰謀をめぐらしていたと言われているが詳細は明らかではない。それは、西部をアメリカから分離させ、さらにスペイン領メキシコを征服してニュー・オーリンズを首都とする新たな国家を建設する陰謀であったと言われている。また駐米イギリス公使に資金援助と軍事支援と引き換えに西部で反乱を起こそうと申し出たとされる。
副大統領退任後、バーは西部各地を巡り、地方の有力者の協力を募った。その中にはジャクソンも含まれている。1806年夏に、バーはオハイオ川中のブレナーハセット島に赴き私兵を集めた。続いてバーは兵を募るためにケンタッキーとテネシー各地を周った。しかし、共謀者のジェームズ・ウィルキンソンがバーを裏切りジェファソン大統領に「深甚で凶� ��で狡猾、そして幅広い陰謀」があると密告した。ケンタッキー州の連邦地方検事はバーを反逆罪で告発したが、バーは起訴を免れている。12月、バーはミシシッピー川を下り始めたが、ウィルキンソンの裏切りによって陰謀が明るみに出たことを知ると自ら出頭した。再びバーは反逆罪で告発されたが、法廷に出頭することを誓約することと引き換えに一時釈放された。バーは逃亡を図ったが2月19日に逮捕され、リッチモンドに身柄を移された。
大統領の対応
ジェファソン大統領はウィルキンソンの密告以前から既にバーの動きを警戒していた。さらにウィルキンソンの密告を受け取って陰謀の確証を得たジェファソンは1806年11月26日に、メキシコに対して軍事遠征を行おうとする者を逮捕する布告を発した。この布告はバー一味を対象としている。
そして12月2日の第6次一般教書でも「合衆国のある場所で、多くの民間人が寄り集まって武装し、法に反する行動をとり、スペイン領に軍事的遠征を企てています。私は、声明や特別命令によって、こうした企てを抑止し、船や武器、その他の手段を差し押さえ、その首謀者と扇動者を逮捕して裁きを下すための措置を講ずることが必要だと考えました」と警告している。
それに加えて1807年1月22日、ジェファソン大� �領は特別教書を議会に送付している。特別教書の中でジェファソンは、「[1806年]9月後半のある日、西部地方を煽動する、連邦の平和にとって不当であり好ましくない陰謀があり、こうした陰謀の首謀者が、これまで故国のおかげで名を成してきたアーロン・バーであったという知らせを私は受け取りました」とバーを名指しで非難している。
また2月3日、ジェファソン大統領は、オーリンズ準州長官ウィリアム・クレイボーンに書簡を送り、「公の治安」を維持するために、一連のバーの行動に対して「超法規的措置」で対応するように求めている。この際にジェファソンが述べた次のような言葉はしばしば引用される。
「成文法の厳格な遵守は確かに良き市民の崇高な義務ですが、最も崇高な義務ではありません。必要に迫ら れた際の行動規範、自己保存の行動規範、そして国を救うという行動規範は、危難の際に、より崇高な義務になります。成文法に固執して亡国の憂き目に会えば、生命、自由、財産、そしてそれらを我々とともに享受しているすべての人々だけではなく法自体も失われるでしょう。したがって目的と手段を履き違えることは馬鹿げています」
バー裁判
1807年、バーは、1806年12月10日から11日にかけてブレナーハセット島に私兵を集結させ、ニュー・オーリンズ占領を計画し、さらにスペイン領メキシコへの軍事遠征を企てた罪状で告訴された。バー裁判と呼ばれる一連の裁判は、予審)、起訴審理、反逆罪公判、軽罪公判からなり、ヴァージニア州リッチモンドの連邦第5巡回裁判所で行われた。
首席判事は連邦最高裁長官ジョージ・マーシャルが務めた。マーシャルは、問題とされている期間にバーはブレナーハセット島の私兵と離れていたこと、さらにブレナーハセット島の私兵がアメリカに対する戦争を実際に行ったことを立証できないことから、憲法第3条第3節1項の「合衆国に対する反逆罪を構成するのは、ただ合衆国に対して戦いを起こし、あるいは敵に援助� ��よび助力を与えてこれに加担する行為に限る」という規定にバーは該当しないという判断を示した。9月1日、陪審団はマーシャルの判断を受け入れ、バーの有罪を立証できないとして無罪を宣告した。続いて軽罪についても9月15日、陪審団は無罪を宣告した。
有罪宣告が下されることを強く望んでいたジェファソン大統領は、バーの無罪宣告について、「連邦を破壊しようと結成されるかもしれないあらゆる反逆的な集団に対して刑事上の免責を与えるのに等しい」と述べ、連邦派のマーシャルが政治的意図で法を曲げたと見なした。
一方でジェファソンはマーシャルの文書提出命令を拒否している。なぜなら大統領は国事を優先すべきであり、「憲法上の義務」を差し置いてまで命令に応じる必要はないとジェファソンは考� �ていたからである。これは、大統領の職務が一般法の規定に優先するという前例となった。
出港禁止法
チェサピーク号事件
ヨーロッパではフランスとイギリスが中心となって戦いを繰り広げていた。その最中、1804年から1807年にかけて1500隻のアメリカ船が拿捕され、アメリカの中立性が脅かされるようになった。ジェファソン大統領は、ウィリアム・ピンクニーとモンローをイギリスに派遣して「従来通りの通商と強制徴用」の問題の解決にあたらせた。1806年12月31日、モンローとピンクニーはイギリスと通商条約を締結した。しかし、1807年3月3日、ジェファソンはモンローとピンクニーが取りまとめた条約を上院に提出しないことに決めた。強制徴用の停止を定めた条項が含まれなかったためである。
さらに事態を悪化させる事件が起きた。1807年6月22日、イギリス艦レパード号が、ノーフォーク沖Norfolkで臨検を拒否したアメ� ��カ軍艦チェサピーク号に発砲したという事件である。その結果、3人のアメリカ人が死亡し、4人が強制徴用された。7月2日、ジェファソン大統領はイギリス海軍の国内港立ち寄りを禁じる布告を発令した。さらに、万が一、戦争が起きた時に備えるために、閣僚と相談のうえ、小型砲艦を建造するための資材とその他の軍需品の購入を手配している。
目的
チェサピーク号事件は国民を憤激させた。その結果、開戦を求める声が高まったが、ジェファソン大統領は孤立主義を採った。1807年12月22日、出港禁止法が制定された。それは沿岸航行を除き、すべての船舶に対してアメリカの港からの出航を禁じている。すなわち実質上の全面的輸出禁止措置である。
その目的は第1に、アメリカ船が拿捕されるのを防ぐことである。第2に、アメリカからの輸出を途絶させ、フランスとイギリスに経済制裁を課して中立国の権利を尊重させることである。そして、その結果、フランスとイギリスが戦争遂行を断念せざるを得ないようにすることであった。またアメリカ自体が戦争に巻き込まれることを防止する目的もあった。もし戦争が起きて戦費が嵩めば、公債をすべて償還できる日� ��遠のくことをジェファソンは危惧していた。
補則の追加
出港禁止法には4度にわたって補則が追加された。1808年1月9日、出港禁止法第1次補則が成立した。それは、違反に対する罰金を重くし、密輸を規制するという内容であった。出港禁止法に反対する人々は、敵意を込めて出港禁止法を「Ograb me (Embargoを後ろから読む)」と呼ぶようになった。ジェファソン大統領はそうした反対にも拘らず、「[国家間の]信義を失わしめる嵐の猛威からわが国を守るには、方法は唯一つ、互いに交戦中のすべての国との通商を断絶することであります (明石紀雄訳)」と訴え、国民の理解を求めた。
1808年3月12日、第2次補則が成立した。陸輸による密輸の阻止を目的とする。ただし海外から国内へアメリカの資産を輸送することが条件付で許可された。
さらに1808年4月25日、第3次補則が成立した。密輸の疑いがある船舶に対して臨検を行い、拘留することを規定した補則である。同月19日には、米加国境地帯で頻発する密輸に対して、ジェファソンはシャンプレーン湖地域が反乱状態にあると宣告している。
そして最後に1809年1月9日、第4次補則(ジャイルズ法)が制定された。それは出港禁止法の施行に関して必要となれば軍隊を用いることを認める補則であった。
撤廃
出港禁止法に対して多くの国民が激しく反発した。特にニュー・イングランド地方の商工業者は、民主共和派が連邦派を処罰するために出港禁止法を強いていると反発した。貿易額が落ち込んだために破産が続出し、ジェファソンに対する非難が高まった。
遂に1809年3月4日、出港禁止法が撤廃されることになった。議会が出港禁止法を撤廃する代わりに、フランスとイギリスを除く諸国との貿易再開を決定したからである。フランスとイギリスに対しては、アメリカの中立の権利を認めるまで輸入と船舶の入港を禁止することが定められた。ジェファソン大統領は議会の決定に従って、3月1日、禁輸法に署名した。既に「年間5000万ドルの輸出」が犠牲になっていたので、たとえ戦争になろうとも現状より悪くなることは� �いだろうとジェファソンは述べている。
多くの歴史家は、出港禁止法は、目的は崇高であったが、実施方法で失敗したと評価する。また市民的自由を損なう恐れがあったという指摘もある。しかし、国際紛争を解決するために経済制裁という平和的手段を用いようとした点を評価する論者もいる。
ネイティヴ・アメリカン政策
ネイティヴ・アメリカンに対してジェファソン大統領は農業に基づく定住を強く勧めた。ネイティヴ・アメリカンが広大な土地を要する狩猟を放棄し、それよりも狭い土地で事足りる農業で生計を立てるようにすれば、余った土地を白人に売却することができ「双方の善」となるとジェファソンは考えていたのである。さらに土地の売却によって手に入れたお金を農機具や家畜を購入する費用にあてれば、農業をうまく軌道にのせることができるとジェファソンは論じている。ただしジェファソンは、「あなた方が売却を望まない限り、我々は土地を求めることはないでしょう」と述べている。
� ��たジェファソン大統領は、交易所でネイティヴ・アメリカンに安価で生活必需品を供給することを提唱している。それはネイティヴ・アメリカンを懐柔する最善の方法だと考えられた。それに加えて、ネイティヴ・アメリカンが交易所でお金を使うようになれば、いずれは借金をするようになり、その結果、容易に土地の売却に応じるようにだろうとジェファソンは考えていた。その一方で交易所を運営することにより、ネイティヴ・アメリカンに害を与えるような交易品を売る商人を排除すべきだとも述べている。なぜなら交易品の1つであった蒸留酒がネイティヴ・アメリカンの間で早くから広まり、その過度の使用が、ネイティヴ・アメリカン社会で深刻な社会問題になっていたからである。そのためジェファソンは、ネイティヴ・� ��メリカンの族長が蒸留酒の禁止を呼びかけた際に賛意を示している。
さらにジェファソン大統領はネイティヴ・アメリカンに代議制民主主義を採用し、土地を個々人が所有することで生じる争いを調停する仕組みを作るように勧めている。例えば、1806年1月10日、にチェロキー族の族長達に向かって「自分の労働で稼いだ財産を持つある男は、他の男がやって来て、たまたま彼のほうが強いという理由で彼の財産を取られたくはないでしょうし、財産を守るために血を流したくはないでしょう。理性とあなた方が決めた規則にしたがって、紛争を裁くために良識ある人々を判事に任命する必要があるでしょう」と助言している。
ジェファソンの弁では、ネイティヴ・アメリカンは「家族」であった。「我が子供達よ、私が今、あ なた方に話す言葉を忘れないで下さい。フランスやイギリス、スペインなどは決して再び帰ってきません。今や我々があなた方の父親なのです」と呼びかけているようにアメリカが「父親」であり、ネイティヴ・アメリカンが「子供達」という擬制的家族関係が提示されている。ただし、こうした言い回しは特に珍しいものではなく、ジェファソン独自のものではない。
父親であるアメリカは、子供達であるネイティヴ・アメリカンを守るために「あなた方の土地に侵入しようとする人々を罰する法律」を制定し、「個人があなた方から土地を購入すること」を禁じた。さらにネイティヴ・アメリカンが州に土地を売却する場合、合衆国の調査官が売買に立会い、合意が自由になされたものか、満足な対価が支払われているか確かめ� �ことをジェファソンは保証している。
とはいえ、そのような親密な呼びかけを行いながらもジェファソン大統領は、ルイジアナ購入によってフランスが決して再び帰って来ないことをネイティヴ・アメリカンに理解させれば、拠り所を失った彼らがより容易に土地の売却に応じるだろうと考えていた。ジェファソンにとって、ネイティヴ・アメリカンを農業に従事させ、白人に同化・統合させ「1つの人々」にすることがまさに「物事の自然な進歩」であり、「彼らの安息と幸福のための」最終的な目標であった。またネイティヴ・アメリカンがそのように「進歩」すれば、諸外国の干渉に惑わされることはなくなるだろうとジェファソンは期待していた。
しかし一方で、ネイティヴ・アメリカンに「我々が手の一打ちするだけ� ��彼らを粉砕できる」ことを分からせることも必要だとジェファソンは示唆している。そして、「愚かでずうずうしくも[戦うために]斧を取る部族は、その全領地を奪い取り、唯一の講和条件としてミシシッピーの向こう側へ追いやってしまえばよいでしょう。それは他部族に対する見せしめになるでしょうし、我々の最終的な統合を促進することになるでしょう」と述べている。
こうした考えの下、推進されたネイティヴ・アメリカン政策により、ジェファソン政権下で、チョクトー族、カホキア族、ピオリア族、カスカスキア族、オセージ族などの領地が買収された。また新たにフランスから獲得したルイジアナについては、人口が多い海岸部は早期に州として連邦に組み入れる一方で、ミシシッピー西岸はネイティヴ・アメリカ� ��を現住地から移住させる用地にするのが「最善の利用法」であるとジェファソンは述べている。この案は後の時代に実現されることになる。
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